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哲学科:2022年度卒:内山栞:無常への試み-現代不安によせて-

目次

自己紹介

みなさんこんにちは!立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士1年の内山栞です。昨年(令和4年)度まで文学部哲学科に所属していました。学部・修士ともに、板橋ゼミで、学部1年の頃から板橋勇仁教授にお世話になっています。


卒論概要

卒業論文の題目は、『無常への試み−現代不安によせて』です。科学技術の発展による現代社会の光と影に苛まれる現代人の不安への手立てを哲学者、唐木順三(1904-1980)の代表作『無常(1964)』をもとに導き出すという内容です。『無常』で中心論題となる道元の思想(『正法眼蔵』など)を用いて、現実それ自体としての無常を「徹底させる」ことを論じました。

この問題意識は常日頃、漠然と考えている自分の不安を発端としています。もはや人智を超えた科学技術の発展と、その先にあるであろう予測不能な事態(卒論ではその筆頭として、3.11の時の原発事故、唐木の生きた時代に起きた原爆投下を重点的に取り上げました)があり、しかも科学技術ゆえこの先発展し続けるしかない。どうすることもできないこの世界をどう生きていくか。そうした思いのもと、卒論を執筆しました(詳しくは、テーマ決定・構想でお話しします)。


私の研究テーマ

私の研究テーマは道元『正法眼蔵』です。卒論は無事提出したものの、課題が残りました。特に、自身の力で『正法眼蔵』を読み解くことが不十分だったため、独創的な見解、結論が見られないことが挙げられます。

卒論を終えての課題、また唐木順三が道元とその著作『正法眼蔵』に深い関心を寄せていたことで、私自身も『正法眼蔵』に惹かれ、本年度より『正法眼蔵』の研究をしています。


大学院での取り組み
『正法眼蔵』勉強会

勉強会を隔週木曜に開催しています。教授指導の下、参加者みなでレジュメを読み合わせ、道元の思想の理解、その思想がどういう構造をしているかなどを議論します。意見交流をすることで考え方の幅が広がるという大きな利点があります。隔週開催ですが、毎回レジュメの作成、勉強会の範囲の予習というのはなかなかの苦行です(勉強会は、夜10時半に終了、12時前帰宅ということも…😅)


研究発表

道元の坐禅修行での悟り(坐禅即悟り)が仏道全体としてはどういった位置づけなのか、これまでの研究の成果、定着度合いを測るため、修士1年の秋(11月初め)、「悟りとは何か」というテーマで発表をしました。聴講者から意見をもらうことは、解釈に穴がないか、ほかに解釈の余地はないかなど、研究の軌道修正を図るという大きな意味があります。研究は個人プレーだと思われがちですが、自分の殻に閉じこもっているだけの研究では、解釈の仕方に偏りが必ず生じます。そのため、こうした研究発表、また勉強会を通じて、様々な意見、考えを取り入れる必要があると私は思います。
添付資料※①


学部時代の私

立正入学後、前期必修科目の基礎演習の先生が板橋教授だったことをきっかけに、勉強会、4年生のゼミ合宿、卒論報告会、飲み会、学会などゼミ、哲学科関連のさまざまなイベント、行事に参加していました。(勉強熱心な学生だと、おそらく周りから思われていたと思いますが、そうでもなく…😇)。読書は、哲学書が『善の研究』(勉強会のテキスト)、自分の興味のある日本思想系の本(鈴木大拙、柳宗悦)、唐木順三の作品くらいで、あとは推理小説、ホラー小説などが大半でした。休みの日も、テスト期間以外はほとんど家でゴロゴロするか、どこか遊びに行っていました。学部4年間そういう感じで、正直、哲学の知識の蓄えはないに等しいと思います(学部時代の自分に言いたいことは、「哲学書の名著の幾つかは読みなさい!」ですね)


学部3年

▶️10月〜11月 卒論に向けた具体的な動き出し
10月 卒論計画書提出(10/29〆切)
11月 卒論ゼミ決定

卒論計画書は、自分の希望する教員と相談しながら、卒論の構成、題目、目次の決定をしました。

▶️11月〜3月 参考文献の読み込み、卒論に使えそうな文献探し

この頃は、卒論でメインに扱う唐木順三の『無常』の読み込みと、そのほか唐木のエッセイ、社会批評論などを読み、卒論に扱える文献がないかを探しました。


学部4年

▶️4月〜 卒論ゼミ(板橋ゼミ)始動
4月 ゼミ初顔合わせ グループ決め(4/11)

板橋ゼミは、毎週大学に来て、グループ活動をします。同じグループの人たちに発表を聞いてもらったり(大体隔週)、ほかの人の発表を聞いたり、意見を出し合ったりして、次回の執筆、発表につながる議論をします。自分の視点からは得られない気づきが毎回あるのが魅力です。

5月 第一回卒論題目届 提出 (5/28〆切)

9月 板橋ゼミ夏合宿in 八王子セミナーハウス<卒論中間発表> (9️/12〜/13)

板橋ゼミ一番の特色として、夏合宿があります。毎年恒例の一大イベントですが、新型コロナの影響もあり、3年ぶりの開催でした。中間発表は持ち時間50分で、前期執筆の進捗状況、新たに書き進めてきた内容、現段階の課題、今後の展望などを発表します。それまでなかなか人前で発表する機会はないので、緊張しがちです。
 
合宿はもちろん発表が第一ですが、それだけではなくゼミのメンバー同士、下級生、先輩、OBOGとの深い交流もできるのが何よりの魅力です。私は地元が八王子⛰️なので、1年、4年、そして修士1年の過去3回とも自転車で行っています。

添付資料※②

10月 第二回卒論題目届 提出 (10/14〆切)
希望者のみ題目変更、私は再考して題目を変更しました。

11月 そろそろ卒論提出が近い…。

11月後半から結論に悩み始めました。4月からコツコツ書き溜めてきて、余裕で提出条件の字数20,000字突破、この時点で残すは結論と目次のみだったので、今思えば執筆活動は順調でしたが、さすがに1ヶ月切ると焦ります😥。
 ※結論の悩みをどう解決したかは、このあとの「後輩へのメッセージ」でお話しします。

12月 卒論執筆ラストスパート

卒論書き上げた!(12/15頃)残すは目次の作成のみ
(血眼になって夜遅くまで目次作成していました)

12/19(月) 卒論提出〆切(板橋ゼミ):月曜5限の授業内で提出
 ※哲学科の他のゼミは年明けに提出です。

▶️12月後半〜 卒論提出後は…
冬休み 大学院入試の対策など

2月に大学院入試があるため、それに向けた対策(筆記試験、面接に向けた卒論の見直し)をしました。

2/6の卒論報告会に向けた発表原稿の作成 (1/4頃〜)

1月 板橋ゼミ令和4年度卒業論文口頭試問<ゼミ内での卒論報告会> (1/26〜/27)

ゼミ生一人ひとりが持ち時間およそ40分で卒論概要、執筆の経過、結論を発表します。
最終日終了後、ゼミ生、教授、聴講者の下級生、院生で飲み会🍺をしました。
(帰りは、言うまでもなく酔いつつ、自力で帰りました。悲惨でしたが…)

令和4年度 立正大学文学部哲学科 卒業論文報告会(立正哲学会主催) (2/6)
2番目に登壇。添付資料※③

2月 令和4年度 立正大学大学院文学研究科哲学専攻 修士論文報告会 (2/7)
2年後、自分も同じように発表するのだと思いながら先輩たちの報告を聴講しました。

大学院文学研究科哲学専攻 入試(筆記、面接) (2/11)
面接は恐ろしかったです。受ければ分かります…。

大学院合格発表通知(郵送) (2/17)


無常との出会い−学部2年−

講義「日本思想史」

皆さんは「無常」という言葉を聞いて何を思い浮かべますか?…、そうあの「無常」です。中学、高校の国語、古典で習った鴨長明『方丈記』や、兼好法師『徒然草』がそれを表した作品であることはよく知られていますね。例えば『方丈記』の冒頭は次のように記されています。

“ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
             淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
                         久しくとどまりたるためしなし。”

『方丈記』も『徒然草』も、すべての存在は移り変わり、永遠不変の実体は存在しない、ということを作者それぞれの感性で綴っている、今でいうエッセイです。この中学、高校でおさらばした言葉、無常に再会したのは、学部2年前期「日本思想史1」という講義でした。

その講義は、『古事記』に始まり、毎週1つの日本の歴史的書物を取り上げ、それを先生が解説するというものでした。無常は確か…、6、7回目の講義だったと記憶しています。具体的に思い出せないのですが、おそらくその先生の解説に感動して(明快かつ、学生の興味を惹きつける解説でした)、その期末レポート執筆の頃には、「卒論で扱おう!」と考えていました。

今考えるとその時期、新型コロナが流行したばかりだった(もちろん、「日本思想史1」の講義もオンライン授業、YouTubeのアーカイブ配信でした)ので、世の中の移り変わりをこれまで以上に感じ、まさに無常だと共鳴したのかもしれませんね(芸能人の自死も目立つ頃でした…)。

言うまでもなく、無常をテーマに期末レポートを執筆しました。(このレポートはあまりにもひどいので、お見せできません…😅)
レポート完成後、板橋先生に読んで頂いたところ、「無常(観)と無常感が混合しているのではないか」という指摘を受けました。

何が問題かと言うと、中学、高校の国語の授業で習った「無常」、その当時の理解のままレポートを書いていたことが問題で…。日本的、風流といったイメージ、また古典作品から、情緒的、詠嘆的、哀愁的であるというイメージを持っていたのでした。


唐木順三『無常』

しかしその当時「無常(観)と無常感が混同しているのではないか」という指摘を私はよく理解していませんでした。そんな私に板橋先生が「この本を読んでみるといいよ」とおすすめしてくださったのが、唐木の『無常』でした。そのなかには以下のように記されています。

[…]無常は単に客観的対象ではない。自己もまた無常の中にある。無常は反って主体的事実である。
 また無常は、「はかなし」という心理の上にあるのでもなく、無常感という情緒の上にあるのでもない。反って無常は自他をふくめての事実、根本的事実である。(唐木『無常』1964年 pp.283-284)


無常とは、現実そのものであると唐木は定義づけています。私はそれまで、無常は紫式部をはじめとする王朝女流文芸に見られる情緒性、詠嘆的な心理のことだと考えていました。しかしそれは唐木が言うところの「はかなし」という心理、また無常感のことであり、実は無常それ自体は全く哀愁性・情緒性をもっていません。

さらに厳密には、『方丈記』、『徒然草』を代表とする無常観とも違います。無常観とは、無常という現実そのものを外側から眺めている状態のことを指します。それゆえ無常は、無常感、「はかなし」、無常観とは異なります。加えて、現実そのものが我々をも内に包んでいるゆえ、無常が主体的事実であるとも示しています。(「常住不変のものはなく、万物は生滅流転する」という意味をもつ無常は、仏教においてこの世界の真理とされています)。
 『無常』の上記引用箇所によって、それまで漠然としていた無常の定義、無常と無常観の違いがはっきりとしました。講義をきっかけとして無常という言葉に惹かれていたのですが、唐木の『無常』に出会ったことで、無常を卒論テーマにすることでが明確化しました(唐木の文体も気に入っていたので同じ頃、『無常』を扱おうと決心しました)。

そのあと、学部2年後期「日本思想史2」で唐木『無常』を扱った期末レポートを執筆しました。

添付資料※④


もう一つのテーマ「現代不安」について−学部3年−

唐木への共鳴

卒論テーマと扱う文献が決まったは良いものの、一つのテーマで扱うのは心許なかったので、問題設定をもう一つ考えなければ、と悩みました。そこで、「問題意識は自分の身近なところから」という思いのもと、何か現代に結びつけたテーマが良いのではないかという考えに至りました。

ちょうど同じ頃、唐木のほかの著作にも興味をもち、読み漁っていました。様々なエッセイ、作品を通して唐木が何に興味関心を寄せているかが傾向として分かり、唐木の人間性にも魅力を感じました。

私が滅びというようなことを感ずるようになったのは、誰でも察しがつくように、原爆とか水爆とか、誘導兵器とか、とにかく核分裂のかもしだす想像もつかないほどのエネルギイの出現、また利用に動機があることはたしかである。(唐木 『唐木順三ライブラリーⅢ 中世の文学 無常』より「滅びの感覚」p.542)

唐木の著作の中でも、特に感銘を受けたのは上記引用の論文「滅びの感覚」(1956)です。

唐木は様々な社会批評を書き残しています。「滅びの感覚」では、(その当時、記憶に新しい原爆投下などを念頭に)核エネルギーの応用による我々の想像のつかない、世界の「行く末」を滅びとし、それが死よりも怖ろしいと述べています。これを読んだ時、この先の未来を案ずると共に、唐木の「嘆き」に深く共鳴した覚えがあります。

もともと地球って人間のものではないですよね。いろいろな動物、植物が生命を宿して、この地で暮らしています。それなのに、ミサイルを飛ばしたり、木を伐採したり、人工衛星🛰️を打ち上げたり…、ほとんどが人間の手によって地球に負担をかけています。そうした我々人間の「人間中心主義」的な世界のあり方に辟易としていました(もちろん、私も人間なので大手を振って非難できないのですが…)

この「人間中心主義」を哲学的には、ものの対象化とも言います。分かりやすく言うと、自分から隔絶しているもの、かつ扱い得るものとして考えることです。科学技術を筆頭に、ものを対象化し事物を変容させることには、生活のクオリティを上げることが目的にあります。換言すれば、外界にあるもの、他者を、隔絶されたもの、扱い得るものとして利用する、ということです。人間が生きている以上、対象化はやむを得ないですが、今日の世界は科学技術の発展によって、それがより顕著になっていると考えます。こうした、すべてのものの対象化が社会構造としてあるために、損得勘定で考え、人同士のつながりが希薄になる。自分はいつ切り捨てられるのだろう、そういった思いを抱えながら生きる。大袈裟ですが、少なからず現代はそういう特徴があると私は考えます。

世界の発展による「滅び」への恐れ、そして世界の性質の根本としてある、すべてのものの対象化、これらから生じる不安が、現代不安ではないかと唐木の作品を通して考え、もう一つのテーマにしようと考えました。

※「おまけ」でそれ以降の卒論内容を詳しく書いています。


ちなみに…

なぜ日本思想、仏教思想に興味があったのか

正直、きっかけが何だったかは断定できません…。実家がお寺というわけでもなく。ただ、日本の民芸品、古道具に囲まれて育ち(母親の趣味です)、今住んでいる実家も和箪笥や和の生活雑貨がたくさんあり、全体的に昔の日本要素が強いです(家自体は北欧住宅なのですが…)。学部4年の時には、ついに自分用の古めかしい大きな書棚を購入しました。そういった長年の生活環境に、自ずと影響されて、日本古来のもの、思想に興味が惹かれていったのではないかと思います。

また、高校3年の受験期に柳宗悦の「安心について」(1958)という論文に出会ったこと大きいです。人間の側からの身勝手な見方、幻想にすぎない物の二元性を断ち切る。そうすれば、心に安心(あんじん)が決定(けつじょう)される。この論文で特に好きな箇所が、妙好人源左の話です。

 「今日はお寒くて」とか、「雨が続いて困ります」とか、そんなことを云ったことがなかった。なぜなら、源左には寒くてもよし、暑くてもよし、晴れても有難く、雨で有難い心の暮しがあったからである。喰物の不平などはなかった。家人が「今日のは辛くなかったか」と問えば、「塩気は有難いものだ」と云う。「甘くはなかったか」と云えば、「沢山食べられて有難い」という。それで、どんなこともそのままで、源左には最上であった。こういう信者には歯が立たぬ。だから二元の争いから去って、自在な暮しをすることができた。(柳宗悦 pp.353-354)

受験期荒んでいた私の心が、その一本の論文によってほぐれたことを今でも覚えています(もともと神経質な性格でもあるため、「こういう人間になりたい!」とすごく思いました。果たして今、源左上人のようになれているのやら…)。のち、哲学科に入学して、柳宗悦が『善の研究』の著者、西田幾多郎(板橋先生の専門です)の教え子だったことを知りました。


卒論タイトル『無常への試み』の由来

『現代史への試み』(1949)という唐木の作品があり、唐木への尊敬の念を込め、オマージュしたタイトルです。また、卒論執筆自体が、学部4年間の集大成であり、「一つのことをやり抜く」挑戦であることも踏まえ、「試み」がいいのではないかと。そうした二重の意味が込められています。


無常への試み−現代不安によせて−:目次

はじめに
第1章 無常と現代ニヒリズム
 第1節 破滅への不安
 第2節 「はかなき」無常とニヒリズム
第2章 「はかなし」から無常へ
 第1節 無常を再定義する
 第2節 「はかなし」-『かげろふの日記』『紫式部日記』を手がかりに-
  第1項「はかなし」の「はか」
  第2項『かげろふの日記』(974-976年頃)
  第3項『紫式部日記』(1010年頃)
  第4項『かげろふの日記』『紫式部日記』の総括
 第3節 「はかなし」から無常へ
  第1項「はかなし」ではない「墓なし」-兵の登場、非情-
  第2項「無常」という言葉の登場-『保元物語』(1219年頃)『平治物語』(1223年頃)ー
  第3項『建礼門院右京大夫集』(1232年頃)
 第4節 「はかなし」と無常のまとめ
 第5節 「無常への試み」にむけて
第3章 無常への試み
 第1節 道元の生い立ち
 第2節 道元の無常の前提
  第1項 無常を観ずること   
  第2項 道心を発して山を登った者がなぜ、さらに道心を発して山を下ったか
  第3項 一切捨棄による「真実無所得の利生」
  第4項 「心を無常にかけて」
  第5項 生死即涅槃の真意
  第6項 時間の有意味化、装飾化の否定
 第3節 道元の無常
  第1項 道元禅-その色合い-
  第2項 時節到来と不動的時間の構造-梅開早春、我・行持-
  第3項 道元の無常の真意
  第4項 道元の無常のまとめ
 第4節 我々はどこへ向かうか
終わりに
参考文献表
巻末注


今やっておくことべきことは?

1、2年生

自分の興味あることはなんでもやってみること。興味のある書籍、文献など(漫画でも雑誌でもなんでも!)をとにかく読む。また長期旅行🛬ものびのび行けるのは、この大学生の時期だけ!好きなことを突き詰めてください‍✨(私は大学1年の春休み、進級する前に、3泊4日の京都旅行をしました。新型コロナの大流行直前でしたが、滑り込みセーフでした。京都旅行で様々なお寺に行って、「和」を楽しみました🍁)
 また、履修した講義はある程度真面目に取り組むこと。授業をきっかけに、自分の興味
関心が広がって、卒論につながるものが見つかるかもしれません(卒業間際になって、「単位が足りない。。」と後悔しないためにも😥)

さらには…、
上級生、大学院生が開催している勉強会などイベント事に気軽に参加してみるのも良いと思います。大学生活、レポートの書き方、単位取得のコツなど情報が聞けるかも😊


3年生

履修している授業の先生あるいは、興味あるテーマ、分野を専門にしている先生の研究室を訪ねて、書籍、文献を借りると良い。3年生の後半ごろからは卒論の構成(はじめから終わり:結論まで)立てをすると4年生になって卒論執筆のスタートがスムーズです。


4年生

構成立てが重要。思うように書けなくなったら、一度立ち止まって、文献の読み込みが足りないのか、そのほかの理由なのか考えてみる。論文のアウトラインを作成して、大まかにでも骨組みを可視化する。アウトラインを書くことで、論文の筋が通っているかどうかが分かります。論文ははじめから順に書いていくことが基本筋ですが、章ごとに区切って、書きやすいものから手を付けることがおすすめです!


卒論を書く際のコツは?

 一気に書くのではなく、スケジュールを組んで、章、節ごとに執筆すること。それと、論文全般の書き方の参考になる本を常に手元に置いておくといいと思います。
おすすめはコレ、私は何度も読み返しています☞『論文の教室』(戸田山 2022)


卒論執筆で大変だったことは?

断然、結論の執筆です。12月過ぎてから結論に入りました(しかも記憶では、提出まで一週間を切っていた気が…)。これまでの議論からどのように結論にもっていくか、どこに焦点を絞って結論とするかに悩みました。締め切り間近というプレッシャー⚡もあり…。

▶️この「悩み」をどう解決した?
あまり参考になりませんが、私の場合は、とりあえずこれまで書いていた原稿を全て見返してみました。そして、現代への問題意識を扱っているので、ここまで論じてきた考えを用いたらどういう方向に今の世界が進むかを想像し、具体例を交えた結論としました。

結論まで来たらもう、これまでの流れをもとに終着点を決めるだけなので、答えは必ず自分の中にあります。焦らず、自分がやってきたことを振り返ってみてください。


卒論執筆を振り返って

私は、卒論を書き終えた時、「ああ、このための4年間だったのか」と一番に思いました(感慨深い)。4年前に入学して、毎朝講義を受けに電車に揺られ1時間15分(八王子から五反田なので遠いんです。。。しかも、最寄り駅までは自転車)。
1年の時なんかは、1限の授業のために朝5時半起床、7時ごろ自宅出発、辛かったです、、、。


哲学科はレポートが多めだったので、テスト期間中は2つ3つの筆記試験の他に、6〜7ほど毎回レポートを抱えていました。

そして2年生、3年生は新型コロナにより、オンライン授業になって、毎日家に篭っての授業→昼飯→昼寝→授業→休憩、読書→授業→授業……。

あっという間に3年生、来年は卒論、それに向けたテーマ決め、本読み。

4年生になった時、正直言って4年生という自覚はなく(感覚的には新型コロナ流行時の2年生)、
「もう私が卒論書くの?」と言いたいぐらいでした

しかし、いざ卒論を書き始めてみるとやっぱり楽しかったです。
その楽しい、のためには

1年生からそれなり(それなりに、です。力抜くところは抜きましょう)授業を受けて単位を取ること、アルバイト漬けにならないようにすること、興味ある哲学分野はなるべく突き詰めること、など、「土台」が重要になります。※個人的な見解です。

・・・と、ここまで偉そうなことを言ってきましたが、正直、卒論は取り組んでいれば何とかなります。

基本的な哲学の知識が怪しい私
でも、何とかなりました。(そのおかげで、院試はボロボロでしたが。。。)


卒論執筆に大事なこと

私が思うに、卒論執筆に大事なのは、
①興味あるテーマについて考えたり、資料集め、読書、など基本的な情報収集をしたりする。
②①を元に、卒論の構成を練ってみる(アウトラインの作成など)
③とにかく、書いてみる。そして書き続ける。
④行き詰まったら、②→③…の繰り返し、もしくは、おおもとの文献に戻る。
⑤やる時はやる、やらない時はやらない、でメリハリをつける。

①に関しては、私は、手っ取り早く唐木順三の全集を購入して常に手元に置いて都度読みしていました。しまいには「唐木順三オタク」に。笑

⑤は卒論以前の問題で、なんだかんだ一番重要です。全ての要(かなめ)です。
自分なりの気分転換法を見つけて、卒論執筆時間とオフ時と、その切り替えを大事にしていました。(私の場合は、地元をよく長時間散歩して気分転換していました。3時間くらい、。そこまでくるともはや、散歩のために卒論を書いていたようなものでしたが。。。)

就活があろうが、アルバイトがあろうが、他の何かがあろうが、
小さな積み重ねは、続けていれば、必ず大きな力になります

皆さんもぜひ、4年間の集大成である卒論執筆に奮闘して、その楽しさ、難しさ、そうした日々が何にも代え難いことを実感してもらえたら何よりです。


卒論の内容を詳しく
無常を「徹底する」とは ※「テーマ決定・構想」から続いています

世界の発展による「滅び」への恐れ、さらには世界の性質の根本としてある、すべてのものの対象化。唐木の著作を読み、これらから生じる不安を現代不安であると定義づけました。

現代不安から目を逸らそうとすること、例えば娯楽や享楽に浸るといったことはあくまでも一時凌ぎであり、根本的な解決にはなりません(テスト前とかにゲームやテレビに逃げてしまうのと、程度は違えど同じです。散々楽しんだ後の絶望はひどいものですよね…)。また、こうした世の中にいる自分を嘆き、そしてある種自己陶酔的な形で容認することも解決には向かいません(紫式部など中世女流作家はこの傾向が強く、これがいわゆる「はかなし」や無常感に該当します)。そうではなく、現実に立ち向かい、そこでどうにかやっていくということが重要なのです。これが唐木の言う「無常の徹底」です。

この「無常の徹底」について、結論では以下のように記しました。

 「まず、この不安な現代(無常)を静観し、世の根源法則は無常であると理解する。そして「一切捨棄」を精神的に一貫する。こうして「心を無常にかけ」て、「このいま」に没頭し、無常を無常として自覚しないままに没頭する。一刹那一刹那毎の我と行為の関係が不可分的に我即行為、つまり我・行為であるということが「このいま」に没頭するということである。例えば食事について、道元禅に則れば「このいま」食事をしている、すなわち、我が食物を咀嚼していることについて、我即一咀嚼であるし、我・一咀嚼である。その一刹那一刹那毎の咀嚼によって我は存在をなしている。そして、そうした我・行為の理論構造のもと日常を過ごせば、現代不安の入る余地がなくなる。また日常全てに一貫していれば、現代不安の入る余地がないどころか元々ないものとなり、「解消」される。心を無常にかけて、我・行為という「このいま」を尽くす世界において「他」を対象化することも克服される。「他」の対象化は、一方(大体は人間)の主観的見方、また、自己執着から生じるものだが、我・行為、あるいは我・物の「このいま」の関係においては、両者は不可分的で優劣がなく、等しい。それは物事を自己執着的な打算ではなく、そのままに捉えることで、真に理性的に考えることができるからである。すなわち「他」に配慮することである。」

『無常』において扱われた道元の『正法眼蔵』の思想に則って、現代に適応する形で結論を示しました。無常、つまり「このいま」、換言すると我即行為に没頭すれば、現代不安の入る余地はない。さらに、「このいま」の関係において我と他は不可分的で優劣がなく、等しいため、物への対象化が起きません。そういった結論です。もちろん、この結論に問題があること、説明不十分なところ、そもそも意味不明なところなど、色々あるのは承知しています…(おそらく唐木の『無常』や、『正法眼蔵』を読んだことのある人でも首を傾げる結論だと思います💦)。ですが、学部の卒論って、そういうものです。多少なりとも、悔い、不十分な点は出てきます。私みたいに、卒論の完成度に満足せず、進学するのも一つの道として考えるのもありだと思います😊。


修論について

修士論文では今のところ、『正法眼蔵』の「梅華」巻を扱おうと思っています。その中に「老梅樹の忽開華のとき、華開世界起」という有名な一節があります。これは、梅華がひとりでに咲くのではなく、全世界、全宇宙の協力によって咲くこと、花が開くことによって世界は花の開いた(別の)世界(春)になることを意味しています。花の開きと季節の到来は一見、それぞれ別の出来事のように思えますが、道元いわく実のところ、全世界は全体と個との連動によって成立しているのです。

『正法眼蔵』は全体を通して、もの同士の関係性、連関について述べているのが特徴です。「梅華」巻ではそれを、道元の師匠、如浄和尚の言葉を用いて、梅の木(老梅樹)に特筆して、春(世界)の到来との関係性を綴っています。私はこの「梅華」巻を用いて、卒論からさらに発展させ、一元論的見解(全ての事物はそれぞれが必ず他との関係性によって成り立っていること)から社会のあり方について論じようと考えています。


資料

ここまで話にあった資料(添付資料※①~④)や、その他資料を載せておきます。
あくまで一学生のレジュメ、レポートですので悪しからず。。。


添付資料※①「悟り」とは何か_学科/専攻発表
添付資料※②2022年度板橋ゼミ夏季合宿発表レジュメ
添付資料※③哲学会卒論報告会レジュメ
添付資料※④日本思想史2(2年)後期レポート

そのほか資料

「哲学演習13(3年)前期レポート」
「哲学演習14(3年)後期レポート」
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