立正大学図書館開館100周年記念 第1回特別展 デジタル展示
山上丶泉と錦絵-100年前の図書館開館記念展を振り返る-
ごあいさつ
このたび、立正大学品川図書館は開館100周年を迎えました。100年前の1926年は、ちょうど元号が大正から昭和へと移り変わった激動の年にあたります。
この一世紀にわたる歩みを振り返れば、日本は幾多の困難を経験してまいりました。とりわけ先の大戦とその後の混乱期には、数多くの貴重な文化財や史料が失われ、あるいは散逸するという憂き目に遭いました。その後の飛躍的な経済発展の中で、各自治体や多くの方々の尽力により史料の蒐集・保護が進み、今日の日本の文化的基盤が築かれてきました。しかしながら、散逸したすべての文化財が、かつてのあるべき姿に完全に戻ったとは言い難い現状もございます。
こうした状況のなか、かつて山上丶泉(やまがみ・ちゅせん)先生が所蔵され、長らく散逸していた錦絵を、100年前の本館開館時と同じく本学において再び展示できますことは、誠に感慨深いことでございます。このたび、ご親族様からのご寄贈により実現したこの再会は、100年という大きな節目における、まさに幸甚な巡り合わせであると感じております。
ご寄贈いただきました貴重な史料は、今後「山上丶泉文庫」として、本学図書館において末永く大切に受け継いでまいる所存です。
また、本展示と同時期に、池上本門寺霊宝殿のご協力のもと、丶泉先生が所蔵されていた日蓮宗関連の錦絵のうち、「加藤清正」を共通テーマとした展覧会も開催されます。ぜひ両会場へ足をお運びいただければ幸いです。
最後になりますが、本展示は、「山上丶泉文庫」の錦絵および関連資料のご寄贈・ご寄付を賜りました山上丶泉先生のご子孫をはじめ、多くの団体・関係者の皆様からのご支援により開催する運びとなりました。ここに、ご協力を賜りましたすべての皆様に深く御礼申し上げ、謝辞とさせていただきます。
2026年6月吉日
立正大学図書館長 髙橋 美由紀
概要
本展について
立正大学図書館は、2026年(令和8年)に開館100周年という記念すべき節目を迎えました。
今からちょうど100年前の1926年(大正15年)、当館の開館を祝して開催された記念展において、来場者の目を楽しませたのは、山上丶泉(やまがみ・ちゅせん)が所蔵していた珠玉の錦絵コレクション(珠廼舎 丶泉文庫)でした。
山上丶泉(1880-1951年/名:智海)は日蓮宗の僧侶であり、歌人・国文学者でもあった人物です。僧階は僧正まで上り、本学の教授などを歴任しました。詩人・歌人としては、投稿雑誌『中学文壇』の主筆を務め、短歌結社「かぐのみ社」を創立しました。また、古書・錦絵の収集家としても知られ、開館記念展に際しては所蔵品を惜しみなく公開し、当館の門出に彩りを添えました。
このたび、ご子孫のご厚意により、丶泉文庫の錦絵類をご寄贈いただきました。奇跡的な巡り合わせにより、開館100周年という節目の年に、長年守り伝えられてきた錦絵を再び展示することが叶いました。100年前に思いを馳せながら、ご鑑賞いただければ幸いです。
本展では、丶泉の様々な側面に注目し、会場ごとに以下のような展示を行います。
・【13号館】丶泉と錦絵:100年前の図書館開館記念展を振り返る
・【11号館】僧侶としての丶泉と和装本
・【8号館】教員・歌人としての丶泉
立正大学図書館が歩んできた歴史と、寄贈によって結ばれた「知の継承」の物語を感じていただければ幸いです。
展示担当一同
展示概要
【展示期間】
2026年6月4日(木)~7月20日(月・祝)
【展示場所】
8号館 B1 古書資料館 (10:30~16:30)
11号館 1F 展示コーナー(10:00~18:30)
13号館 B2 特別展示室 (10:30~16:30)
資料一覧
8号館B1 古書資料館
〔日章旗の寄せ書き〕 (文書館蔵)
1枚 74×1060cm (立正大学文書館蔵)
〔昭和18年(1943)頃〕作成
井村日咸学長時代(1942-1944)に書かれた寄せ書き。丶泉も参加している。右端に「我れ日本の柱と為らん/立正大学長井村日咸〔花押〕」とある。丶泉のものは左下で、以下の和歌とともに署名している。「先陣につゝくと二陣/三陣の学徒ら/きほひ征くか/行くへし」(先陣に続くと二陣三陣の 学徒ら競ひ征くが行くべし)。立正大学文書館所蔵資料。
第三回卒業生 記念写真帖 立正大学高等師範科 国語漢文科(文書館蔵)
大塚美鳥編
1冊 18.9×26.8cm (立正大学文書館蔵)
サクラスタジオ(撮影) 昭和5年(1930)
昭和5年の立正大学専門部高等師範科(国語漢文科)の卒業アルバム。当時の立正大学には、大学部と専門部があり、高等師範科は専門部の学科だった。高等師範科には、国語漢文科のほかに歴史地理科も設けられていた。丶泉は大正14年(1925)から専門部の教授を務めた。本資料には、山上智海の名で顔写真が確認できる。立正大学文書館所蔵資料。
〔国語科教員免許状〕(山上家蔵)
1枚 23.2×30.7cm (山上家蔵)
東京 文部省 大正14年(1925)
師範学校・中学校などの国語科の教員免許状。文部省より大正14年1月10日に発行されたもの。文面にある教員免許令は明治33年(1900)4月に公布されたもの。第3条は、「教員免許状ハ教員養成ノ目的ヲ以テ設置シタル官立学校ノ卒業者又ハ教員検定ニ合格シタル者ニ文部大臣之ヲ授与ス」とある。山上家所蔵の資料。
『月刊宗報』68号 (〔日蓮宗大学中学部教授任命記事〕)
1冊 25.9×19.0cm (合冊製本の内)
〔東京〕 日蓮宗宗務院 大正11年(1922)7月
日蓮宗宗務院が刊行していた宗門に関する報告誌。各寺の住職や宗門内の役職についての任免、僧階の昇除などについて掲載されていた。68号には、丶泉が、大正11年6月10日に日蓮宗大学中学部教授を任じられた記事が載る。当時の丶泉の僧階が大僧都であったことも分かる。中学部は、立正大学付属立正中学校・高等学校の前身。
総合高等日本文法
山上丶泉著
1冊 23.3×15.5cm
東京 白帝社 昭和10年(1935)
丶泉が執筆した文法の教科書。例言によると、高等学校・専門学校などでの使用を想定していた。後に、本書と対となる『修辞学新講』を同じ白帝社から刊行している。丶泉の文章表現や語法についての研究としては、「日蓮聖人遺文の文章法研究」(『日蓮聖人遺文全集講義』第28巻)や、没後に刊行された『日蓮聖人遺文の語法研究』などが知られる。
総合高等日本文法 〔講義ノート〕
山上丶泉著
1冊 20.8×15.0cm
〔東京〕 〔山上丶泉〕 〔昭和23年(1948)頃〕作成
自著である『綜合高等日本文法』の要点をまとめた手書きの講義ノート。中には、昭和23年の国語審議会による漢字字体の整理に関する新聞記事なども添付されている。丶泉が立正大学の予科や専門部で担当していた国語や修辞学などの授業で、『綜合高等日本文法』を教科書として使用していた際の講義ノートだと考えられる。
短歌作法新講
山上丶泉著
1冊 21.6×15.2cm
東京 立正同窓会 昭和15年(1940)
凡例に、立正高等女学校作歌科の教材として著したものとある。同校は、岡田日帰に創設され、昭和2年(1927)に開校された。現在の東京立正高等学校(杉並区堀ノ内)にあたる。明治天皇やその皇后であった昭憲皇太后の和歌についても言及されており、「明治天皇御製を指導原理としての詠歌法大意」が「附篇」として付けられている。
昭和二十三年三月三日 「国文法作文」〔試験問題〕
〔山上丶泉作成〕
1枚 36.4×26.0cm
〔東京〕 〔山上丶泉〕 昭和23年(1948)
「綜合高等日本文法〔講義ノート〕」に挟まっていた資料。丶泉が担当していた立正大学予科一年生の「国文法作文」の試験問題のうちの1枚。試験は、昭和23年3月3日に実施された。予科は、大学の本科に入る前に普通教育を行う課程だが、昭和22年(1947)4月1日に施行された学校教育法によって順次廃止されたため、同年の募集が最後となった。
(昼)三月二十五日施行二年 国語試験問題
〔山上丶泉作成〕
1枚 25.2×36.1cm
〔東京〕 〔山上丶泉〕 〔昭和25年(1950)頃〕
「綜合高等日本文法〔講義ノート〕」に挟まっていた資料。丶泉作成の国語の試験問題。施行日の前に「昼」とあるのは、昭和24年(1949)に新制大学となった立正大学に二部(夜)が設けられたためだろう。丶泉の没年が昭和26年(1951)であることも考慮すると、問題の制作年はその前年と推定される。問題には、昭和21年(1946)公布の現代仮名遣いに関するものもある。
『中学文壇』231号 他
3冊 25.8×18.4cm
東京 北上屋書店 明治41年(1908)12月
丶泉が編集や主筆として関わった投稿雑誌。中学校・師範学校・高等女学校の生徒などから投稿された散文(論説や小説など)・韻文(新体詩・漢詩・和歌・俳句など)を中心に紙面が構成された。懸賞募集も行われた。丶泉自筆の履歴書(山上家蔵)によると、丶泉が主筆であったのは、明治40-43年(1907-1910)で、新体詩の選出なども担当した。
歌集 久遠の春
山上智海作
1冊 14.5×10.5cm
東京 山上智海 大正10年(1921)
丶泉が最初に刊行した歌集。1.「聖祖讃仰歌(略譜附)」、2.「聖誕七百年慶讃歌五篇」、3.「梵音和唱(法華経廿八品拝詠)」、4.「聖史凡読(日蓮聖人史伝謹詠)」、5.「祖訓孱頌(聖祖御遺文題賛)」より成る(付録を除く)。1は、日蓮の生誕700年を記念した協賛会懸賞募集で一等となった詩で、曲が付けられた。「久遠の春」というタイトルは、この歌詞の第2節1句より取られたもの。
歌集 曼珠
山上丶泉著 山上三千生編
1冊 14.8×10.7cm
東京 かぐのみ社 昭和25年(1950)
丶泉が自撰した自作の短歌520首(製本の都合で数十首が割愛)を、三男の三千生が編集したガリ版刷りの歌集。「著者略歴」の前に貼られた色紙には、丶泉が歌を自筆している。三千生の後記によると、色紙は丶泉の出身地である信州(長野)特産の「絹の紙」だという。自序には、昭和24年10月の古稀の祝いに際して新村出や釈迢空(折口信夫)らより贈られた歌も見られる。
かぐのみ記念歌集
山上丶泉編
1冊 19.0×13.0cm
東京 かぐのみ社 昭和15年(1940)
皇紀2600年と、短歌雑誌『かぐのみ』創刊12周年を記念して刊行された歌集。かぐのみ社の同人106名の短歌を2500首収録している。巻末の「参加歌人録」により、同人の経歴なども分かる。皇紀は、『日本書紀』に記された神武天皇即位の年を元年として定められた紀元。皇紀2600年(昭和15年)は、節目の年としてさまざまな記念出版物が刊行された。
かぐのみ第三記念歌集
山上丶泉編
1冊 18.7×13.5cm
東京 かぐのみ社 昭和18年(1943)
昭和16年(1941)12月8日に「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」が発せられてから一周年、短歌雑誌『かぐのみ』創刊15周年を記念して刊行された歌集。丶泉を始めとして、かぐのみ社の同人114名の短歌を二千数百首収録している。巻末には「参加歌人録」がある。戦時中ということもあり、戦争を賛美する歌も多い。
短歌雑誌『かぐのみ』23巻4号 〔山上ヽ泉先生追悼号〕(他)
3冊 20.9×14.9cm
〔東京〕 〔かぐのみ社〕 昭和27年(1952)3月
昭和4年(1929)2月に丶泉が創設した短歌結社「かぐのみ社」の機関誌。「かぐのみ」は、『古事記』などに出てくる「ときじくのかくの木実」(時を定めず常に輝く木の実)からとった名称。昭和27年(1952)3月には丶泉追悼号が刊行された。丶泉の没後、かぐのみ社の活動は半年ほど休止するが、三男の山上三千生によって継承され、『かぐのみ』も「復刊」として継続された。
〔山上丶泉短冊〕
山上丶泉〔作〕
短冊 8枚 36.2×6.1cm
〔昭和期〕自筆
丶泉が自作の短歌を自筆した短冊。裏面に署名したものもある。書かれた年は明確でないが、「戦時下風景 上着なきおのもおのもが平等に ま夏の街を行きてつかれず」のように、戦時中に詠まれた歌もある。この短冊の裏面には、「かぐのみ第三記念歌集出版日祝歌会にて」とある。『かぐのみ第三記念歌集』が刊行された昭和18年(1943)の作と分かる。
〔山上丶泉色紙〕
山上丶泉〔書〕
色紙 11枚 21.3×18.4cm
〔昭和期〕自筆
丶泉が自作の短歌を散らし書きした自筆の色紙。『歌集 曼珠』に掲載されている歌が多い。「信濃路のしづが伏屋の屋根石も 白珠のごとし雪に映ゆれば」もその一首。他にも、「浅間嶺」「園原」「天龍峽」など、丶泉の出身地である長野(信濃)の山や地名を詠んだ歌が複数見られる。いつ頃に書かれた色紙かは明確でない。
〔山上丶泉葉書〕
山上丶泉〔書〕
葉書 7枚 14.1×9.0cm
東京 山上丶泉 〔昭和15-17年 (1940-1942)〕自筆
丶泉が千葉勝雄に宛てた葉書。書かれた時期は消印による推定。裏面に、自作の短歌を墨書きしている。千葉勝雄は、藤村三男の筆名で短歌を詠んでいた「かぐのみ社」の同人で、『かぐのみ第三記念歌集』にも参加していた。同書巻末の「参加歌人録」によると、東京都品川区北品川に居住した岩手出身の医師であったという。
11号館 1F 展示コーナー
日蓮聖人註画讃之研究 : 附日蓮宗関係錦絵版画総目録
山上丶泉著
1冊 18.7×13.0cm
東京 日蓮宗宗務院 昭和18年(1943)
丶泉の研究書。巻末に「日蓮宗関係錦絵版画総目録」を付す。この目録に収録される錦絵などは、数点を除きヽ泉文庫のものとある(176頁)。本展(13号館)の錦絵類も、この目録中に掲載されている。丶泉は、昭和15年(1940)に日蓮宗管長より、宗門関係の錦絵類の調査を命じられた(175頁)。布教用資料としてまとめられたのが本書である
日蓮聖人と法華経 : 教科資料
山上丶泉著
1冊 26.6×19.2cm
昭和9年(1934)自筆
丶泉の自筆原稿。表紙に「教科資料 日蓮聖人法華経」、凡例の末尾には「昭和九年 月 山上丶泉識」とある。複数種類の罫紙や原稿用紙の右肩を紙縒などで結んでいる。中には、印刷された論文を貼り込んだ部分もある。「教科資料」とあるので、日蓮宗の布教用資料として書かれたものと推定される。この原稿をもとにした書籍が刊行されたかは確認できない。
〔山上丶泉草稿〕
山上丶泉〔著〕
1冊 25.9×18.1cm
昭和9年(1934)自筆
丶泉の自筆原稿。昭和9年の自序のほか、「連歌に現れたる法華経」「民謡に現れたるお題目とお祖師様」「日蓮宗音頭」「法華気質に関する笑話」「近世の過渡期に産れたる法華経歌」の5編からなる。本資料に挟み込まれていた立正大学の便箋に、書名の候補が複数書かれているが、この原稿をもとにした書籍が実際に刊行されたかは不明である。
『日宗新報』1205号 (「朝鮮布教監理部通信(二)」)
1冊 19.0×26.0cm
東京 日宗新報社 大正元年(1912)10月
丶泉は、明治45年(1912)に朝鮮布教を命じられ、忠清南道大田(たいでん)布教所に赴任し、大正7年(1918)まで布教活動を行った。『日宗新報』1205号の「朝鮮布教監理部通信(二)」には、丶泉が積極的に布教活動を行っていた様子が記載されている。同記事には、丶泉の「新案教談式」の講話が好評だったとあるが、一部の文字が伏せられている。
〔僧正補任状〕
1枚 27.2×37.5cm(山上家蔵)
昭和22年(1947)10月
丶泉が僧正に叙せられた際の補任状。「日蓮宗管長印」という印が押されている。当時の日蓮宗管長は、身延山久遠寺の84世であった深見日円(1869-1957)。宛名の「山上智海」は本名。丶泉は、明治34年(1901)から「丶泉」の雅号を用いていたとされる。本資料は山上家から展示のために借り受けたものである。
『日蓮主義』3巻7号 (〔口絵〕、口絵解説)
1冊 18.4×12.6cm
東京 日蓮宗宗務院 昭和4年(1929)7月
日蓮宗宗務院が布教用に刊行していた雑誌。昭和2年(1927)10月から昭和18年(1943)11月・12月合併号までの刊行が確認できる。初期の口絵には、丶泉文庫の錦絵類が掲載されていた。3巻7号では、丶泉自らの口絵(「後醍醐天皇第三皇子大塔宮護良親王誦読於鎌倉土牢法華経図」)の解説を書いている。同号の末尾には、編集が丶泉を訪ね、口絵を選んだことが記されている。
日蓮聖人いろは歌留多
日蓮宗大学コドモ会制定 山上丶泉撰
1箱 96枚
東京 日蓮宗大学コドモ会 〔大正10年(1921)〕
日蓮宗大学コドモ会の顧問だったヽ泉が考案したカルタ。日蓮の一代記にちなんだ句を読札とし、句に対応する絵柄を取札とする。読札は、(い)「一ばん偉いお祖師様」など、子供向けの平易な内容となっている。取札は多色刷だが、石版印刷の5度刷だという(『法華』8巻12号)。日蓮宗宗務院の推奨品として、日蓮宗大学内の社会問題研究所が販売した。
法華百人一首(読札・取札)
日蓮宗大学コドモ会制定 山上丶泉撰修 渡辺光徳図案
2箱 230枚
東京 日蓮宗大学コドモ会 〔大正10年(1921)〕
山上丶泉が『法華経』の教えを詠んだ和歌を115首選び、カルタにしたもの。日蓮宗大学コドモ会会長の馬田行啓が協力し、発行された。歌の作者は時代や身分を超えて多岐にわたる(後鳥羽院・日蓮・徳川光圀・福田行戒など)。読札の図案は、丶泉と親交のあった画家の渡辺光徳による。特製・上製・並製の3種が販売された。特製は桐箱入りなので、本資料は上製か並製。
日蓮聖人御法海
並木鯨児・〔安田蛙桂〕作
1冊 21.9×15.8cm
京都 菱屋治兵衛 寛延4年(1751)
日蓮の生涯を描いた人形浄瑠璃の台本(浄瑠璃本)。本書は7行本より残存数が少ないとされる10行本(中字本)。並木宗輔作の『いろは日蓮記』を改題・改作したもの。大坂の豊竹座にて、寛延4年10月10日に初演が行われた。豊竹座創業者の初代豊竹若太夫は、日蓮宗の信徒であったことが知られている。丶泉の印のほか、見返しには墨書きが見られる。
身延詣道中滑稽花の鹿毛 三篇上巻
河間亭水盛著
存1冊 22.2×15.2㎝
〔江戸〕 〔双鶴堂(鶴屋金助)他〕 文化8年(1811)
十返舎一九(1765-1831)の『道中膝栗毛』の影響下に成った膝栗毛物の一つ。男2人が四谷新宿から甲州道中を旅し、身延山への参詣を目指す戯作。作者は加賀美真文(筆名・河間亭水盛など)。文化6-8年(1809-11)までに初編3巻・2編3巻・3編2巻の計8冊が出されたが未刊に終わった。本書は3編上巻の初版本で、丶泉の蔵書印が複数押されている。
小松原御難縁記 : 高祖日蓮大菩薩
1冊 26.6×18.1cm
〔文政8年(1825)〕
小松原法難と鏡忍寺の由来を述べた書。この法難は、文永元年(1264)に日蓮らが安房国東条郷松原で襲撃された事件を指す。この時に討死にした鏡忍坊らの菩提を弔うため、小松原山鏡忍寺(現・千葉県鴨川市)が建立された。見返しには、文政8年に浅草玉泉寺で出開帳を行うに当たり、援助を求める文がある。表紙には、丶泉が購入した際の売札が見られる。
東都本化道場記
蓮翁著 暁雲斎(等)〔画〕
1冊 17.5×11.9cm
天保11年(1840)自序
日蓮宗の信者用に書かれた江戸市中の参詣案内書。著者は在家信者の近藤蓮翁。寺院の順路、開山や霊仏、諸師の墓所などを記し、各寺院の本山を示す記号を付す。天保11年の自序によると、詩歌や連歌・俳諧などの参考のため、寺院の風景画の挿絵や、寺々に伝わる和歌や俳諧も記録したという。挿絵は複数人が担当している。丶泉の印が見られる。
法華諸国霊場記
1冊 9.9×22.4cm
嘉永5年(1852)刊 明治2年(1869)後修
諸国にある日蓮宗の霊場の参詣案内書。身延山久遠寺への年参講を契機に、道中の旅籠や休憩所を定め、古くから伝わる参詣記にて増補したという。巻末より、嘉永5年の刊行と推定される。ただし、追加(補刻)された「蝦夷一円の図」に「明治二年巳八月」(47丁上)とあるため、嘉永5年版を明治2年に改訂した後刷本と考えられる。丶泉の蔵書印が複数確認できる。
明治新撰 高祖菩薩妙法記
柳水亭種清撰 東海堂歌重画
3巻 1冊 18.0×12.0cm
東京 丸屋小林鉄治郎 〔明治期〕
日蓮の一生を題材とした明治初期の草双紙。著者は柳水亭種清とある。種清は、時宗の僧侶でもあった人物。日蓮の一代記を書いた理由は不明。丶泉は、本書の巻末付録を重要視していたようで、表紙の貼紙や見返しに付録を珍重すべきことを墨書きしている。その付録とは、巻下の巻末に見られる「妙法和讃」「妙法摩利うた」(「おなじく新歌」「同じく」)だろう。
校訂伊勢物語図会
市岡猛彦〔校〕 法橋玉山〔画〕
3巻 3冊 26.0×18.4cm
名古屋 美濃屋伊六(ほか) 文政8年(1825)
尾張藩士の市岡猛彦が『伊勢物語』の本文を校訂し、大坂の絵師、法橋玉山が挿絵を描いた書。市岡は本居宣長に入門した国学者でもあり、和歌を得意とした。各話には通し番号が付され、上の欄外には校異が記される。玉山は上方絵本の挿絵など、版本の挿絵を多く手掛けた。本書の挿絵数は133図で、多くは見開きとなっている。丶泉の蔵書印が複数見られる。
湖月抄
北村季吟〔著〕
22冊 16.7×12.4cm
〔江戸明治期〕写
北村季吟による『源氏物語』の注釈書、『湖月抄』の写本。延宝元年(1673)の完成後に出版された。本書では、系図などの付録を2冊にまとめている。丶泉が、自身の古稀を記念し、昭和24年(1949)に購入したもの。書箱の奥に購入時の売り札(東横古書)が残る。売り札には、「仙台伊達家旧蔵/能筆写本」とある。絹装で、薄様の紙に細字で書写されている。
13号館 B2 特別展示室
高祖御一代略図 (建治三年九月身延山七面神示現)
朝桜楼国芳画
横大判1枚
〔江戸〕 〔伊勢屋利兵衛〕 〔天保7年(1836)頃〕
日蓮の逸話を題材としたシリーズ(揃物)全10枚のうちの1枚。日蓮宗の信徒でもあった歌川国芳(1797-1861)の作。建治3年(1277)9月、日蓮の説法を聞きに来ていた身延山の七面神が龍の姿を現した場面を描く。大正期に複製版が作られたが、本図は江戸期の刷りと考えられる。寄贈を受けた丶泉文庫に残る「高祖御一代略図」は、本図を除き、すべて複製版である。
大日本史略図会 六十四 (宗祖日蓮上人清澄寺に初て旭に対ひ題目を唱へたまふ)
〔安達吟光画〕
横中判1枚
〔東京〕 〔大倉孫兵衛〕 〔明治18年(1885)〕
安達吟光による「大日本史略図会」の1枚。日蓮が旭に向かって題目を唱える場面を描く。建長5年(1253)4月28日、清澄寺(現・千葉県鴨川市)でのこととされる。左端の刊行年や版元は見づらいが、明治18年に日本橋の大倉孫兵衛より出版されたものと考えられる。2丁掛の明治21年(1888)版があるので、本図は、上半分が除かれた可能性がある。
日蓮上人一代記
広貞〔画〕
中判2枚続(貼合)
〔大坂〕 〔嘉永2年(1849)〕
嘉永2年10月に大坂道頓堀の竹田芝居で上演された歌舞伎、『日蓮上人御法海』を題材とした5連作のうちの1点。大坂の浮世絵師、五粽亭広貞の作。丶泉は「身延七面天女示現」と称す(「日蓮宗関係錦絵版画総目録」)。七里姫についた龍女が日蓮に払われることで悟りを得、七面大明神へと変じ、日蓮に仇をなす東条判官を襲う場面を描く。
日蓮上人波題目之図
一光斎芳盛画
大判3枚続
江戸 相ト 〔安政4年(1857)〕
日蓮の逸話を題材とした錦絵。流刑地の佐渡へ向かう日蓮が嵐に遭った時、題目を唱えて難を逃れた場面を描く。国芳の門人である歌川芳盛(1830-1885)の作。江戸時代には、同様の場面を描いた作品が複数ある。本図では、手に数珠を持った日蓮と、海面に浮かぶ「南無妙法蓮華経」の文字が見られるが、日蓮が棹を持ち、海面に文字を書いたかのように描かれる作もある。
日蓮上人石和河にて鵜飼の迷魂を済度したまふ図
芳年〔画〕
大判3枚続
秋山武右衛門 〔明治18年(1885)〕
石和川(現・山梨県笛吹市付近)を通りかかった日蓮が、鵜飼の亡霊を救ったという逸話に基づく図。大蘇(月岡)芳年の作。殺生禁断の地で漁をした鵜飼は、罰として水に沈められ、亡者となった。日蓮は供養のため、河原の石に一文字ずつ『法華経』の経文を書いて川底に沈めたという。この逸話は、世阿弥の改作による謡曲「鵜飼」としても知られている。
〔清正公渡海船中〕
一蘭斎国綱画
大判3枚続
江戸 相ト 〔文久2年(1862)〕
丶泉が「清正公渡海船中」と称した錦絵と推定される(「日蓮宗関係錦絵版画総目録」)。二世歌川国綱(1830-1874)の作。豊臣秀吉の命を受けた加藤清正が、家臣と共に朝鮮へ渡海する場面を描く。出版統制の影響で、江戸後期には天正期以降の武士の実名表記が避けられた。本図でも、清正の名が「佐藤正清」となっているが、清正を示す要素として、胴の蛇の目紋や題目旗などが描かれている。
日蓮聖人御一生記
1枚 42.5×59.8cm
〔江戸後末期〕
日蓮の生涯にわたる主要な逸話をまとめた図。全面に、淡彩の着色が見られる。丶泉が「日蓮聖人御一生記(淡彩)」と称した一枚物と推定される(「日蓮宗関係錦絵版画総目録」、「著者未詳の分」)。全体を30マスに区切り、各逸話に関する絵と説明文を入れる。ただし、上段の右から4行目のマスには、典型的な日蓮の座像と、日蓮宗の紋として知られる井桁に橘紋を配す。
武勇組討尽 (四王連但馬守政高 佐藤虎之助正清)
一川芳員画
縦大判1枚
〔江戸〕 〔丸屋甚八〕 〔文久2年(1862)〕
加藤清正が四王天政孝と組み合う場面を描く。国芳の門人である歌川芳員の作。『絵本太功記』4篇巻1などに見られる話を題材とする。本能寺にて織田信長を討った明智光秀は、四王天但馬守(政孝)に、京都へ戻る羽柴秀吉を奇襲するように命じた。尼ヶ崎で秀吉を待ち伏せた四王天は、栖賢寺に逃れた秀吉を捜すも見つけられず、加藤虎之助(清正)と組討ちとなり、討ち取られた。
正清十六勇臣揃之図
一雄斎国輝画
大判3枚続
〔慶応元年(1865)〕
「佐藤主計頭正清」(加藤清正)と16名の家臣を描いた図。2世歌川国輝の作。徳川家康の重臣を描いた徳川十六将と同じ枠組みだが、描かれる家臣は常に同じとは限らない。「清正公渡海船中」と重複する家臣は5名。その内の「稲上大九郎」は井上大九郎のことで、国芳の「太平記英雄伝」でも取り上げられている。
本朝名将鏡(藤原正清朝臣)
一寿斎芳員画
縦大判1枚
〔江戸〕 〔丸屋甚八〕 〔安政5年(1858)〕
源平の武士や戦国武将などを描いた歌川芳員によるシリーズの1枚。人物の全身像の脇に和歌を付す。本図は加藤清正を描くが、出版統制の影響で「藤原正清朝臣」とされる。和歌は、一対である妹山と背山に毎年咲く桜のように、尽きることのない男女の契りを詠む(「とし〴〵に盛り久しき桜はな尽ぬ契りも妹と背の山」)。嘉永3年(1850)刊の『義烈百人一首』にも清正の和歌として載る。
〔清正公大神儀〕
一寿斎芳員画
大判縦2枚続
〔江戸末期〕
大判2枚を縦に繋ぎ合わせたもの。軸装にされていた形跡がある。丶泉が「清正公大神儀」と称した歌川芳員の作と考えられる(「日蓮宗関係錦絵版画総目録」)。「清正公大神儀」は神格化された加藤清正の呼称。日蓮宗の信者であった清正は、最正山覚林寺(現・港区白金台)など、同宗の寺院で祀られることがある。武装した清正像の背後には、清正を象徴する題目旗が描かれている。
江戸の花名勝会 て 三番組 (佐藤正清 片岡仁左衛門ほか)
芳虎画 豊国(三世)画 広重(二世)画
大判縦1枚
〔江戸〕 〔加藤屋清兵衛〕 〔文久3年(1863)〕
3人の絵師が江戸の名所を描く「いろは」48枚のシリーズの1枚。本図の左上には歌川芳虎による加藤清正の兜が描かれ、その脇に句(「蛇の目の兜ハ鉄か赤銅か」)や白金の地名由来譚を記す。右下は三世歌川豊国の役者絵で、佐藤正清(加藤清正)を演じる片岡仁左衛門を描く。左下には二世歌川広重による覚林寺の境内と、「白金清正公菖蒲勝守」の口上が記されている。
賤ヶ峰大合戦之図
一魁斎芳年筆
大判2枚続
〔江戸〕 〔山口屋藤兵衛〕 〔慶応2年(1866)〕
羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の合戦(1583年)を題材とした錦絵。大蘇(月岡)芳年による作。右図は「佐藤虎之助正清」(加藤清正)が「浜地将監満国」(山路正国)を組み伏せているところ、左図は「阿喜坂新内」(脇坂安治)が鎗で敵兵を突き殺す場面を描く。清正や安治らは、この合戦での武功により、賤ヶ岳七本槍と呼ばれた。『絵本太閤記』5編巻4などに詳しい。
加藤清正虎狩之図
楊洲周延筆
大判3枚続
綱島亀吉 明治20年(1887)
加藤清正が虎を狩る場面を描いた明治期の錦絵。楊洲周延の作。清正の他にも、「鵤平次」「森本儀太夫」「飯田角兵衛」「木村又蔵」といった家臣たちも描かれる。江戸期の作と異なり、武士はすべて実名表記である。「正清十六勇臣揃之図」では、上記の家臣を「鶴平治」「森本治太夫」「飯田宅兵衛」「志村政蔵」とする。
御利生結ぶの縁日 (清正公 白銀台町)
溪斎英泉画
大判縦1枚
〔江戸〕 〔蔦屋重三郎〕 〔文政7年(1824)頃〕
溪斎英泉(1790-1848)による美人画のシリーズの1枚。画面中央に女性の全身像を描き、小さな絵馬形の枠内に寺社の景観を、その背後に奉納手ぬぐいを配す。本図では、手鏡を見ながら髪のほつれを直す女性と、清正公(加藤清正)を祀ることで知られた日蓮宗の白金覚林寺が描かれる。本図と配色が異なり、蔦屋重三郎の版元印が見られるものが初刷と考えられる。
流行俳優利生鏡 (瀬川路考 芝又ノ帝釈天)
五渡亭国貞画
大判縦1枚
〔江戸〕 〔江崎屋吉兵衛〕 〔江戸後期〕
役者絵と寺社を組み合わせたシリーズの1枚。歌川国貞(1786-1864)の作。画面中央に、歌舞伎の女方として知られた瀬川路考を描き、左上の枠内に柴又帝釈天を配す。枠は、路考にちなむ結綿紋の形を取る。なお、柴又帝釈天は、日蓮宗の経栄山題経寺(現・葛飾区柴又)の通称であることから、丶泉の収集対象になったと考えられる。
江戸自慢三十六興 (池上本門寺会式)
喜翁豊国筆 広重(二世)画
大判縦1枚
〔江戸〕 〔平野屋新蔵〕 〔元治元年(1864)〕
江戸の名所と人物を描いたシリーズの1枚。人物は三世歌川豊国、風景は二世歌川広重が担当したとされる。長栄山本門寺(現・大田区池上)で行われるお会式(日蓮の忌日に行われる法会)に参列する母娘と奉公人3名の姿を描く。娘は、衆徒が題目を唱えながら敲く団扇太鼓を手にし、3名の背後に置かれた万灯には、日蓮宗の紋である井桁に橘紋が見られる。
元旦 妙見詣
香蝶楼国貞画
大判3枚続
〔天保4年(1833)か〕
元旦の妙見山法性寺(現・墨田区業平)へ初詣に来た男女に見立てた役者絵か。丶泉は「元旦柳島妙見詣(美妓二人と俳優)」と称す(「日蓮宗関係錦絵版画総目録」)。歌川国貞の作。提灯には、妙見大菩薩や男芸者と考えられる名が記されている。右図の松は、妙見大菩薩が降臨する松で、周りの柵に蛇の絵馬が掛けられている。本図の出版年は巳年か。
東都名所(八景坂)
一昇斎筆
団扇絵 1枚
〔東京〕 〔伊勢屋孫兵衛〕 〔明治2年(1869)〕
団扇絵(団扇に張る絵)。八景坂は、東京都大田区山王のJR大森駅西口付近、池上通りの坂道を指す。坂の上には、源義家が奥州征伐の時に自身の鎧を掛けた松があった。画面中央の松の前には茶店の娘が描かれる。右側の茶店の提灯には、日蓮宗の紋として知られる井桁に橘紋が見られる。八景坂を通り、日蓮宗の池上本門寺へ参詣する人々が多かったためか。
〔蘇鉄の図〕 (摂泉堺広普山妙国寺)
今来新之丞春延〔画〕
1枚 32.9×47.8cm
〔堺〕 〔広普山妙国寺〕 〔江戸後期〕
日蓮宗の本山の一つ、広普山妙国寺(現・大阪府堺市)の大蘇鉄を描いた図。今来新之丞春延が描いた絵を木版とした一枚物で、右端には蘇鉄の大きさなどが記されている。同寺の蘇鉄は、寺地を寄進した三好之康(実休)が居住していた時に植えたものという(『和泉名所図会』巻2)。この蘇鉄は現在、国の天然記念物に指定されており、妙国寺は「蘇鉄の寺」の通称で知られる。
〔鬼の題目〕
広重(一世)筆
小判 1枚
〔江戸〕 〔和泉屋市兵衛〕 〔江戸後期〕
鬼たちが日蓮宗の団扇太鼓や、題目の書かれた提灯を持つ図。初代広重による作で、一部が薄墨で刷られている。提灯には、他に井桁の紋らしきものが確認できる。これれは、日蓮宗の紋として知れる井桁に橘紋だろう。泉によると、広重は「鬼の題目」には2種類あり、本図以外には、短冊型の墨刷が存在するという(「日蓮宗関係錦絵版画総目録」)。
江戸名勝図会(柳島妙見)
広重(初代)筆
小判1枚
〔江戸〕 〔和泉屋市兵衛〕 〔江戸後期〕
鬼たちが、日蓮宗の信徒たちが用いる団扇太鼓や、題目の書かれた提灯を持つ図。歌川広重による墨刷りの作。提灯に見られる井桁は、日蓮宗の紋として知られる井桁に橘紋を意識したものと考えられる。丶泉によると、広重の「鬼の題目」には2種類あり、本図以外にも、短冊型の墨刷り図が存在するという(「日蓮宗関係錦絵版画総目録」)。
三十六花撰 (東都堀の内山茶花)
"喜斎立祥〔画〕
大判1枚
〔江戸〕 〔蔦屋吉蔵〕 〔慶応2年(1866)〕
花に焦点を当て、36の江戸の名所を選んだシリーズの1枚。二世歌川広重の作。日蓮宗の日円山妙法寺(現・杉並区堀ノ内)と山茶花(さざんか)を描く。妙法寺は、日蓮の像(祖師御尊像)を祀った祖師堂などで知られ、「堀之内の御祖様」の名で親しまれている。この像は、江戸時代にも厄除けの霊験があるとして信仰を集めた(13-24参照)。
江戸名勝図会 (堀之内妙法寺)
広重(二世)画
大判1枚
〔江戸〕 〔藤岡屋慶次郎〕 〔文久2年(1862)〕
「柳島妙見」と同じシリーズに属する。日円山妙法寺の祖師堂にて、縄を振って鰐口を鳴らしている奉公人などを描く。右上の解説によると、妙法寺が祀る日蓮の像は「厄除の御影」と呼ばれ、強い霊験があるため、遠方からの参詣者が絶えないとある。本図の紙は、特殊な加工がほどこされた縮緬(ちりめん)紙のため、通常の大判よりも一回り小さくなっている。
東都名所(柳島妙見堂)
広重(初代)画
横大判1枚
〔江戸〕 〔佐野屋喜兵衛〕 〔天保末期頃〕
江戸の名所を描いたシリーズの1枚。歌川広重の作。妙見山法性寺の妙見堂周辺を描く。画面中央には、北十間川と横十間川の合流地点付近に架かる柳島橋があり、その奥が妙見堂、右側が料亭「橋本」である。同じ広重の作には、この橋本に焦点を当てた図もある(「江戸高名会亭尽 柳島之図 橋本」)。本図の木々の刷りは潰れているため、後刷と考えられる。
東都名所(柳島妙見堂)
一寿斎芳員画
横大判1枚
〔江戸〕 〔和泉屋市兵衛〕 〔嘉永6年(1853)〕
歌川国芳の弟子である芳員の作だが、広重の「東都名所 柳島妙見堂」と同じ構図で描かれている。芳員作の「東都名所」には、他にも広重の図とそっくりの作がある(「御茶之水之図」)。広重は、本図と同じ版元の和泉屋市兵衛からも「東都名所」のシリーズを出している。その中に柳島の妙見堂や御茶之水を描いた図は見られない。
身延山絵図
畳物 1枚 65.3×93.2cm
身延中町(甲斐) 波木井織部 〔江戸中期〕
身延山久遠寺(現・山梨県南巨摩郡身延町)の霊域を描いた木版の鳥瞰図。全体に彩色が施されている。久遠寺は日蓮が晩年を過ごした霊場。本図には、総門・山門・本堂・東谷・西谷・御廟所・上の山・奥の院・七面山の九域が描かれ、地名や堂名などが注記されている。同じ構図の別版があるが、本図は、左の枠外に「身延中町/波木井織部」とある波木井版である。
日蓮聖人註画讃之研究 : 附日蓮宗関係錦絵版画総目録
山上ヽ泉著
1冊 18.7×13.0cm
東京 日蓮宗宗務院 昭和18年(1943)
丶泉の研究書。巻末に「日蓮宗関係錦絵版画総目録」を付す。この目録に収録される錦絵などは、数点を除きヽ泉文庫のものとある(176頁)。本展の錦絵類も、この目録中に掲載されている。丶泉は、昭和15年(1940)に日蓮宗管長より、宗門関係の錦絵類の調査を命じられた(175頁)。布教用資料としてまとめられたのが本書である。
〔宗門版画資料調査辞令書〕
1枚 23.5×31.3cm(山上家蔵)
昭和15年(1940)12月
昭和15年12月20日、日蓮宗管長の望月日謙がヽ泉へ出した辞令書。日蓮宗版画資料(錦絵や一枚物、版本の挿絵など)の調査を命じている。別の資料により、調査期間が3年と区切られていたことが判明している。昭和18年に、「日蓮宗関係錦絵版画総目録」を付した『日蓮聖人註画讃之研究』が刊行されたのはそのためである。本資料は山上家より借用したもの。
道戯手遊合戦
一龍斎芳豊画
大判3枚続
〔江戸〕 〔辻岡屋文助〕 〔文久2年(1862)〕
玩具などの合戦を描いた図。昔話の登場人物も見られる。左図では、鯛車(車付の台座に鯛形の玩具を乗せたもの)に跨る武士に旗持ちの猿が続く。猿の持つ旗には、日蓮宗の紋である井桁に橘紋に加え、「開帳」の文字が記される。江戸時代には、地方寺院が江戸で秘仏などを公開する出開帳がたびたび行われた。日蓮宗の出開帳が強調されている理由は明確でない。
〔護良親王 淵辺義博に襲わるる図〕
尾形月耕画
大判3枚続
東京 芝定四郎 明治16年(1883)
後醍醐天皇の第一皇子、護良親王が淵辺義博に殺害される場面を描いた図。尾形月耕の作。足利尊氏の讒言によって鎌倉に幽閉された親王は、建武2年(1335)7月に足利直義の命を受けた義博に刺殺された。親王は、幽閉中に『法華経』を読誦していたという。日蓮宗では『法華経』を所依の経典とするため、本図も「日蓮宗関係錦絵版画総目録」に収録された。
〔高祖御一代図会納札〕
国松〔画〕
存16枚 15.3×20.1cm
〔東京〕 〔矢部古泉〕 〔大正12年(1923)〕
日蓮の逸話を年代順にした多色刷の納札(社寺参詣の記念に納める紙の札)。歌川国松の作。17枚のうち、「御剃髪」の1枚を欠く。概要を記した1枚には、「和泉橋倶楽部/大正十二年三月廿一日夜/今主/矢部古泉」とある。東京市神田区岩本町(当時)にあった和泉橋倶楽部では、納札などの交換会が行われていたとされる。会主であった矢部古泉により作られたものか。




