モラりすレポート

vol.14 仏教の教えで人と社会をケア

2011/10/21

仏教を通して、現代社会に生きる私たちの本来あるべき姿や
社会の在り方を見つめ、教育の大切さを説く。

仏教学部 仏教学科 伊藤瑞叡 教授

仏教学部 仏教学科
伊藤瑞叡 教授

札幌市瑞玄寺に生まれ、同本龍寺に育つ。昭和36年札幌北高校卒業。昭和40年早稲田大学第一文学部哲学科(東洋哲学専修)卒業。昭和43年東京大学大学院人文科学研究課修士課程(印度哲学)修了。昭和48年博士課程修了。昭和59年文学博士。早稲田大学講師、東京大学講師等を経て現職。立正大学大学院文学研究科長、学校法人藤学園慈光幼稚園を創設し理事長兼任。主著に『華厳菩薩道の基礎的研究』、『法華菩薩道の基礎的研究』、『法華経成立論史~法華経成立の基礎的研究~』(平楽寺書店)等多数。

情報やモノが氾濫して、自分さがしが難しくなっている現代社会で、
私たちは皆、ときに自分を見失いそうになりながら、“よりよく生きる”術を模索しています。

私たち日本人は、古くより仏教と深い関わりを持ってきましたが、
現代では、その関係性が形式化し、日常的に仏教とふれあう機会が減ってきているのではないでしょうか。
しかし、日本文化の基底のひとつを成す仏教の教えが、
私たちにとって、有益なものであることには疑いの余地はありません。
今、私たちは“苦”からの解放、解脱を求める仏教の教えから、どのようなことが学べるでしょうか?
大乗仏教を代表する華厳経と法華経の成立と思想などに多くの研究業績を持ち、
政治や経済など、多角的な視点から社会を見つめる伊藤教授に、
仏教の始まりやその究極的な原理、心に留めておきたい言葉など、
私たちが “よりよく生きる”ためのヒントになるお話を伺いました。

伊藤教授にお聞きしました!現代社会が仏教から学ぶことは?

Q1. “仏教”の始まりについて教えてください。

A.インドとネパールの国境近く、ヒマラヤ山のすそ野で小国を治めていた釈迦族の太子として誕生したガウダマ・シッダールタは、生まれながらにして経済的にも恵まれ、社会的な地位も約束され、何不自由ない暮らしを送っていました。しかし、出生時に母親が亡くなったことの影響からか、あるときから、太子の心は大きな悩みに支配されるようになります。それは、すべての人々はやがて老い、病によって、いずれ死んでいくという、生あるものなら避けられない“生・老・病・死の現実”に対する苦しみでした。そして太子は、この苦しみを解決するために出家し、“苦”からの解脱を求めて修行者となり、精進にはげみ、ついに“悟り”を開きます。つまり仏教の始まりは、“人間苦の認識”であったと言えるでしょう。“出家”は、通俗の生活から見れば敗北ではありますが、太子の出家は、人類の叡智の中で最も重要な思想を樹立し、多くの人を教え導く源泉となる“悟り”を得る契機になったのです。
ちなみに“仏陀(ブッダ)”とは、インドの言葉で「真実なるもの、すなわち“法”にめざめた人」という意味であり、「真実なるものにめざめ、真実なるものにかなう自己を成就した人格」を“仏陀(ブッダ)”と言います。日本では苦しみの束縛からほどけたものの意で、“仏(ほとけ)”と言いますが、これは“仏陀”を略した言葉です。そして、人間の歴史の中で“ブッダ”と称された人格が、ガウダマ・シッダールタであり、のちにガウダマ・ブッダと呼ばれ、釈迦族出身の聖者であることから“釈尊”とも称されました。

Q2. “仏教”とは、どのようなものですか?

A.仏教とは“仏の教え、仏の言葉”という意味です。私たちが生きているこの世界で、心のよりどころとして確信できる真実なるもの、すなわち“法”を、仏の教えにもとづいて追究し、事物を如実に知見する智慧を持ち、これによって“法”を体験しながら、“法”にかなう自己になるための精神的な努力であり、実践的な行為であると言えます。また、その過程で現実の生活における苦しみや悩み、憂いや悲しみ、社会の諸問題を正しい解決に導こうとする真摯な態度の、根本的な形式であるとも言えます。そして、仏教の究極的な原理は、「“能力”よりも“態度”が成功と幸福を達成する」ということにあります。心、言葉、体のふるまいをととのえること、つまり生きる態度をととのえること、常に自らを省みる態度(内省)を保つことを重んじています。

Q3. 仏教を通して見ると、現代社会はどのような状況ですか?

A.ひとことで言えば、無秩序であり無連帯(アノミー)の時代だと思います。価値観が多様化しすぎて連帯感が欠如し、コミュニケーションが希薄になり皆孤独です。道を歩いていて、お年寄りや体の不自由な人が困っていても気にも留めません。“人を人と思わぬ人でなし”が、なんと多いことでしょう。このような時代を仏教の言葉で「末世法滅」と言います。そして法華経には、そのような時代に生きる人々について「孤露にして持怙無し」と書かれています。“孤独であり露のごとくはかなく、自分を保ち支(ささ)えるためのよりどころがない”ということです。そしてまた、「増上慢(ぞうじょうまん)」であるとも言えるでしょう。これは“おごりたかぶっている”という意味です。まだ悟りの境地に達していないのに悟りを会得したと思いこむこと、つまり自己の価値をかいかぶることであり、内省する態度がないということです。また、現代の日本社会で最も憂うべき点は、日本語を喪失しつつあることでしょう。日本語は本来、気持ちや事象を表現する言葉が豊かな、非常に美しい言語です。先に述べたように、仏教では心、言葉、体のふるまいをととのえることを重んじていますが、言葉のふるまいは特に大切です。言葉のふるまいが、心をコントロールするからです。美しくやさしい、心和む言葉を使うことで、自ずと心の平安を保つことができるのではないでしょうか。

教授直筆の法華経の教え教授直筆の法華経の教え

Q4. 現代に生きる私たちが、仏教から学べることとは?

A.現代社会は能力第一主義です。それゆえ多くの人が100点を取ろうと必死になり、これが行き過ぎて、ときに心を失ってしまう人も少なくありません。しかし、先に述べたように、仏教では“能力”より“態度”が成功と幸福を達成すると考えます。一生懸命に頑張って50点の人と、何もせずに100点の人では、前者がよりよく生きられるということであり、態度をととのえることを重んじています。それでは“態度をととのえる”ために、どのようなことを心がければよいのでしょうか? 仏教の教えにヒントを見つけるのであれば、「善友」「善知識」という言葉があります。善き師、善き友、善き知識(書物)に出会うことです。これは「こころざし」を持つことによって可能になります。また、同じく仏教の言葉で「如実知見」とは“あるがままに事実を見る”ということです。今ある苦しみ(事実)をあるがままに見つめると、その苦しみの原因にたどりつきます。原因が分かれば対処方が分かり、対処することで原因を除去し、真実を見つけることができるのです。さらに仏教には「四無量心」という言葉があります。これは、次の4つの心を持(たも)つと、無限(無量)の「さいわい」をもたらすことを説いたものです。

○慈(じ・いつくしみ)…他者を慈しむ心
○悲(ひ・なさけ)…他者の悲しみを自分のものとして憐(あわ)れむ心
○喜(き・よろこび)…他者の喜びを自分のものとして喜ぶ心
○捨(しゃ・やすらい)…無用なこだわりを捨てる心

また「四摂法(ししょうぼう)」は、善(よ)く生きる生き方の基本を4つの言葉で表したものです。

○布施(ふせ)…不要なお金や物は、見返りを求めずにこれらを持たない人に与えること
○愛語(あいご)…他者に対し、こよなく愛らしく、美しくやさしい言葉をかけること
○利行(りぎょう)…他者に利益をもたらす行いをすること
○同事(どうじ)…他者と同じ行いをして協力すること

こういったさまざまな言葉が持つ真の意味を理解し実践することで、私たちは幸福と成功を達成することができるのではないでしょうか。

教授直筆の仏教の教え教授直筆の仏教の教え

Q5. 若い世代である学生が仏教を学ぶ意味は?

A.Q3.で述べたように、私たちは「末世法滅」の時代に生きています。そのような状況の中、若い世代が“日本文化の基底のひとつを成した仏教”を学ぶことは、日本人として、人間として、人類として、よりよく生きるため、大変意味のあることと捉えています。言うまでもなく、人が生きていくうえで、教育を受けること、与えることは非常に重要なことです。日本人がいつしか、慈しみの心や、憐れみの心を失ったことも、また、美しい日本語を使うことができなくなったのも、戦後の日本の教育に大きな要因があるのではないでしょうか。本学科では、仏教を“文化”として捉え、思想、歴史、文学、芸術といった多角的な視点から、仏教によって結ばれる世界を比較考察し、人間の本質を探ります。仏教の学びを通して真なるものを求め、善き師、善き友、善き知識に出会ってほしいと考えています。

教授のテキスト著書「法華仏教学入門」教授のテキスト著書「法華仏教学入門」

Q6.立正大学が提唱する「ケアロジー(ケア学)」とご専門分野の関連は?

A.仏教は“苦”からの心の解放を指す“解脱”を求める道として開かれたものですから、仏教そのものがケアロジーであるとも言えるでしょう。そして“ケア”を考えるとき、次のような話が頭に浮かびます。“あるとき釈尊(釈迦族の太子)は、子供を亡くして悲しむひとりの母親から「子供を生き返らせてほしい」と懇願されます。母親に対し釈尊は「家々を訪ね、30年の間に親族が誰ひとりとして亡くなっていない家があったら、けしの実をもらいなさい。もしひとつでもけしの実を手に入れることができたら、子供を戻す手立てを考えましょう」と答えます。そして母親は、自分と同じように愛する人を亡くし、同じ悲しみを抱く人がいるという現実を知り、ようやく諦めることができるのです”。仏教の言葉で“諦”とは、放棄することではなく、物事を、その事実を直視し、明らかに見て、その真実を自覚して、諸行無常の摂理を引き受けることです。ここで注視したいのが「対機説法(たいきせっぽう)」という言葉で、法を説くときには、対象になる人々の能力や資質、性格や欲望(願い)に合わせて説くことが大切であるということです。なげき悲しむ母親に対し、ただ「しっかりしなさい」と言うだけでは、真実を悟ることはできなかったでしょう。このように“ケア”を考えるときには「対機説法」を心に留めておかなければなりません。手段(方便・ほうべん)と目的(真実・しんじつ)とをわきまえて、よくもちいることが大切でありましょう。

教授直筆の仏教の教え教授直筆の仏教の教え

 

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