古書資料館通信 Vol.3

図書館長あいさつ

立正大学図書館長 友永 昌治

 古書資料館も開設以来早2周年を迎えました。その間、外部評価においても認証審査においても「他大学に類を見ない施設」との評価を戴きました。折しも今年度より図書館は情報メディアセンター(現情報環境基盤センター)から独立し新生図書館として出発することになりました。益々、古書資料館の充実とサービスに勤しみ、「知の発信拠点」たる学術的な側面からの社会貢献を推し進めたいと思いを新たにしております。
 さて、古書資料館は、古書に染み込まれた文化・歴史の味わいを直に感じ取り、アクティブに教育・研究・学修して行くという意味で、アナログであることが命の学術情報空間といえます。教育・研究・学修環境の支援と言うと、とかくICT(情報通信技術)を背景になされるものと考えられがちですが、新生図書館としましては、高度情報化の潮流の中で、ICTに敏感でありながらもアナログにも拘りつつ着実に歩みたいと考えております。皆様方には、ときには温かく、ときには厳しく古書資料館の展開を今後とも見守っていただきたく改めてお願いする次第であります。

立正大学図書館略史(品川キャンパス)—古書資料館前史として 第3回

古書資料館専門員 小此木 敏明

 前号では、「立正大学図書館略史(品川キャンパス)」の第2回として、大正期から新制大学認可前までの動向を確認しました。その中で、小倉文承氏の寄付による図書館書庫(未完成)のことを取り上げましたが、このことについて補足があります。小倉氏は、大正4年7月5日に図書館建設費用として3年間にわたり毎月100円を寄付する契約を結んでいました1。この契約通りに行けば、大正7年6月に契約満了となり、寄付額は3600円となったはずです。ですが、前号で述べたように、大正6年の7月頃に着工したと推定される図書館は、小倉氏の5000円の寄付によるものとされています。この期日と寄付額のずれは、大正5年の火災で仮図書室が燃えてしまったことが原因かもしれません。この時の契約書が残っていれば、より正確なところが分かるでしょうが、現在のところ推測の域を出ません。

 それでは、第3回の内容に移りたいと思います。今回は、新制大学認可後から平成28年4月現在までを駆け足で見ていきましょう。近年の動向については略述し、昭和43年に新たな図書館が完成するまでを中心に述べていくことにします。

立正大学図書館関連年表(2)

 ※色付部分は大学の動向

昭和24年19492月21日新制立正大学認可
昭和25年19506月25日研究室・図書閲覧室(木造2階建)など完成。
昭和31年19564月13日第1期鉄筋校舎竣工。
昭和34年19599月5日第2期鉄筋校舎竣工。その210番教室にリーディング・ルームを開設。
昭和39年 196411月25日地上4階地下1階の校舎を新築。その2階を新たに閲覧スペースとし、分散していた閲覧室を統合する。
昭和43年19688月5号館に新たな図書館が竣工。
平成16年20044月1日図書館と情報処理センターを統合した情報メディアセンターを開設(竣工は前年)。旧図書館(5号館)の地下書庫は保存書庫となる。
平成26年 20144月8日旧立正大学付属中学校・高等学校の建物(8号館)に古書資料館を開設。
平成28年20164月1日情報メディアセンターは改組され、新たに立正大学図書館が誕生した。

<戦後>

新制大学の認可と閲覧室

昭和24年、立正大学は新制大学の認可を得て、仏教学部(宗学科)、文学部(史学科・文学科・社会学科・地理学科)を設置し、翌25年には、新たに経済学部を加え、文学部に英米学科を設けました。施設の復興も進み、この年の6月には、研究室・図書閲覧室を含む木造2階の建物が建設されています2

前号でも述べましたが、この時、大正15年の図書館は健在でした。にもかかわらず、閲覧室が造られたのは、学生数に対して十分な広さの閲覧スペースが確保されていない、という判断があったのかもしれません。

 当時の図書館の統計によると、閲覧者数は増加傾向にあったことが分かります。昭和23年度の閲覧者は8,999人でしたが、同24年度には12,274人となっています3 。それに対して、閲覧室のスペースはどうだったのでしょうか。大正15年の図書館には、閲覧室として立てられた3階建の建物がありました。しかし、実際に閲覧室として使われていたのは、その内の2部屋(2階と1階に各一室ずつ)のみ、という状況だったようです4。これは昭和28年の記録による情報ですが、昭和24年ごろも状況はさして変わらなかったでしょう。

図書館の抱える問題—『立正大学新聞』の記事より

 増加する利用者に備え、新たな閲覧室を造ったわけですが、それでも後に、座席数の不足が問題になりました。昭和33年12月5日の『立正大学新聞』は、「目立つ図書館の弱体 閲覧者88人に椅子40」という記事を一面に載せ、この問題を大きく扱っています。40席というのが、すべての閲覧室の座席数を合計したものかは不明ですが、試験期に図書館がかなり混雑していたのは事実のようです。

 この時期の図書館は、他にも様々な問題を抱えていました。先の新聞記事では、予算の不足による新刊書の少なさ、設備の老朽化、人員の少なさといった問題に言及しています。これらの状況についてもう少し詳しく見ていきましょう。

 同新聞記事によると、昭和33年当時の図書館の蔵書は約10万冊でした。そのうち半数以上が「和本」であり、一般学生には使いものにならない、という厳しい評価を受けています。この「和本」は、研究的価値の高い資料であり、現在その大部分が古書資料館に所蔵されています。使いものにならない、というのは不当な見解ですが、所属学科や研究分野によっては、活用する機会がなかったのも事実でしょう。古い資料より新しい研究書を求める声が大きくなるのは仕方なかったのかもしれません。

 その新しい研究書を買うための予算はどうだったのでしょうか。当時、図書費に当てられていた金額は、700,000円でした。これが各研究室に分配され、残った150,000円ほどが図書館の使える費用となっていました。同新聞記事によれば、これは他の私立大学と比較して、かなり少ない額であったようです。ちなみに、この700,000円という額も以前は更に少なく、昭和27年度の図書費決算額では120,796円という状況でした5 。同年12月、学長兼図書館長に石橋湛山氏が就任すると、昭和28年度予算で研究費が見直され、図書費も700,000円まで増額したという経緯があります。

 石橋湛山氏は大学史において必ずふれられる人物ですが、図書館にも多大な貢献をしており、図書館長就任時には各出版社から多くの蔵書が図書館に寄贈されました6。また、図書館収蔵資料として近年注目されている河口慧海旧蔵資料も、石橋氏らが関係し、もたらされたものと推測されています7

 話を戻しましょう。蔵書を大幅に増やせなかったのは、予算の問題だけではなかったようです。仮に十分な図書費が用意されたとしても、新たな蔵書を収納するスペースが不足していました。大正15年建設の図書館書庫は、昭和31年の段階ですでに飽和状態だったようです。それを緩和するため、同年8月には、図書館(閲覧室のある建物)の3階に空いた部屋を書庫として利用することにし、15,000冊の蔵書を移したとあります8

 当時の図書館職員は、僅か4名に過ぎませんでした。彼らは様々な悪条件のもと、学生や教員の希望に添えるよう、努力を重ねていたはずです。新刊本の整理や蔵書点検など、やらなければならないことが多々ある中で、カウンターにも人を置かなければならず、加えて戦後、図書の分類を日本十進分類法(NDC)へと改める作業も行われました。そんな中、図書館主事や司書部長として、戦後の図書館を支えた人物が桜井良策氏です。桜井氏については後述することにします。

リーディグ・ルームの設置

 上記の問題に加えて、図書館が完全閉架の出納式だったこともマイナス要因でした。昭和32年2月1日の『立正大学新聞』に寄せられた投書に、「開架時代に全部の書籍が書庫に入つているが雑誌位は、自由に見られる開架にしてもらいたい」9とあるように、開架式の図書館を望む声が大きくなっていました。閉架式にもメリットはありますが、利用者にとっては、自分で本を手に取れる開架式の方が使い勝手がよいのは事実です。

 図書館委員会10は、問題の打開策として、昭和34年9月5日に竣工した新館(第2期鉄筋校舎)の210教室にリーディング・ルーム(閲覧用分室)を設置し、約3,500冊の指定書・参考書・教養書を開架本として置き、学生が自由に手に取れるようにしました11

 開架式はやはり好評だったようで、昭和35年に行われたアンケートでは、開架式のリーディング・ルームが本館の利用度を上回る結果になっています12

 その後も、全冊開架式の図書館を望む声がたびたび上がりました。昭和35年10月20日の『立正大学新聞』には、「図書館への注文帖 全図書を開架式に」13という投稿記事が掲載されている他、同年12月20日の「図書館を探る」の記事では、一面の見出しに「全図書の開架式を望む声」と大きく掲載されています。

 その結果を受けてか、図書館は開架式の閲覧室を拡大させていきます。昭和39年には、図書館の南側に建設された4階建地下1階の建物(当時2号館)14の2階を新たな閲覧室としました(右図参照)。そこにリーディング・ルームの書籍を収容し、分散していた閲覧室を統合して約15,000冊を開架本としています15。すべての蔵書を開架に出すことは無理でしたが、リーディング・ルームが使いやすくなったことで、この問題はひとまず解消されたといえるでしょう。

5号館図書館の完成

 残る大きな問題としては、建物の老朽化や書庫の不足がありました。これらを根本的に解決するため、大学は新たな図書館の建設に踏み切ります。待望の新図書館(5号館)が完成したのは昭和43年の8月のことです。5号館は、大正15年の図書館を取り壊した跡地に建てられています。旧図書館は建築から40年あまりでその役目を終えました。

 新たな図書館の詳細は、日本図書館協会の機関誌である『図書館雑誌』63巻4号(1969.4)の「私たちの新しい図書館」のコーナーに掲載され、全国に紹介されました。『図書館雑誌』の記事は、当時の司書部長であった桜井良策氏と竹内悊氏の共著となっています。

 以下、『図書館雑誌』の記事により、5号館の図書館について述べたいと思います。5号館は地上5階、地下2階の建物でしたが、1階・2階(閲覧・開架スペース)と地下(書庫)が図書館として利用されました。当時、図書館の蔵書が15万冊だったのに対し、地下の書庫だけで20万冊を収蔵することが可能でした。しかし、将来蔵書が増加することを見越して、隣接地へ保存書庫を増築する案など、長期的な見通しとして9段階の変化が想定されています。最終の9段階目は、閲覧スペースを別に移し、5号館全体を書庫とするというもので、そうした場合、130万冊を収め得ると述べられています。

 これらの計画は、図書館建築専門委員会(館長・部課長・図書館学担当講師・財団常務理事で構成)による基本方針の一つ、「今後の図書館の成長と大学の充実に即応する」という項目に基づいたものです。この図書館は、図書館建築専門委員会が大学当局の示す未来像に従い、基本方針を決定した上で建設されました。当時、大学が図書館をいかに重視していたかが、この長期計画の存在からも窺えます。

その後の図書館

 5号館の図書館は長らく続きましたが、平成16年、情報処理センターと統合され、新たに完成した11号館に移りました。図書館のスペースだった5号館の1・2階は改築され、現在は教室として利用されており、地下書庫は保存書庫として活用されています。

 その後、しばらく大きな変化はありませんでしたが、平成26年に立正中学校・高等学校が馬込に移転するに及び、図書館が保有していた和漢古書などを旧中・高の図書室へと移動し、古書資料館を開館する運びとなりました。開館から2年が経過しましたが、幸いにも学内・学外から高い評価を得ています。

 平成28年度、情報メディアセンターは改組され、新たに立正大学図書館が誕生することになりました。現在の図書館の蔵書は約54万冊(熊谷図書館を含めると約95万冊)です。昭和30年ごろと比べると実に5倍近くの規模となっています。これらの蔵書は、教員や学生の研究活動に日々利用されています。

桜井良策氏について

最後に、桜井良策氏について述べておきたいと思います。桜井氏は図書館の歴史を語る上で欠かせない人物の一人です。沼義昭名誉教授は、桜井氏を「図書館の主」と呼び、1994年当時、大学史に130年記念の追加版が計画された場合に、一章ずつ宛ててもらいたい職員の一人に数えています16

 桜井氏は明治34年の生まれで、大正15年に大学に勤務し、昭和47年に退職しています17。退職後も嘱託職員として図書館職員の研修などに当たっているので18、実に半世紀近くも図書館に関わっていたことになります。

 桜井氏は、在職当時、大学関係の雑誌や新聞に、司書としてたびたび文章を書いています。昭和24年には、『アタラクシア(立正大学図書館報)』の発行に着手し、自身でも「図書館論」「文化と図書館」「書籍装幀物語」を連載執筆していました。『アタラクシア』は、学内への図書館情報の周知と、学生の向上が目的でしたが、図書館員の不足などにより、残念ながら5号で中断してしまいました19。近年、図書館が刊行している「シリーズ・アタラクシア」(現在vol.3まで刊行)は、桜井氏の『アタラクシア』からその名前を取ったものです20

 桜井氏には研究者としての一面もあり、「絵巻物の書誌学的意義」21、「日本文化と法華経」22、「書誌学—解釈学的考」23、「図書館学の先覚者Friedrich Adolf Ebertの思想」24といった論文を執筆しています。また、退職後には、『日本図書文化源流考』(巌南堂書店、1978)と『斑鳩寺から法隆寺へ』(自費出版、1982)という著作も出しています。晩年まで、その探究心が衰えることはなかったようです。

桜井氏の文章と図書館史

 桜井氏の文章の中には、図書館史において重要なものが多くあります。例えば、大学令認可から30周年にあたる昭和8年10月6日の『立正大学新聞』には、「図書館三十年略誌」を寄せています。おそらく、これが最も早い立正大学の図書館史でしょう。記載されている出来事の年数に曖昧さはあるものの、当時の状況を知る貴重な資料です。例えば、立正大学の図書の分類(NDC採用以前)は、大正11年に図書係となった鈴木一成氏(後立正大学教授)が、他大学の図書館を研究した上で、デューイの十進分類法をもとに考案した、と書かれています(旧分類の詳しい話は別号に譲ります)。

 また、『立正大学学園新聞』の昭和28年2月20日には、「図書館の今後と運営」という記事を書いています。この記事の中で注目されるのは、経済学部と英米文学科の増設にあたって、それらの関係図書を収集する中で、「CIE」と「駐留軍」から蔵書の寄贈を受けたとある点です。CIEとは、GHQ(占領軍総司令部)の一部であった民間情報教育局のことです。このCIEは1945年以降、全国23箇所にCIE図書館を設置し、アメリカから取り寄せた本や雑誌の公開を進めていました。CIEの活動は研究対象ともなっており25、その点からも面白い記述です。

 図書館は、このCIEから昭和22年に経済学部関係資料(米国図書570冊、雑誌615冊)を、昭和27年にアメリカ文学に関する図書40冊を寄贈されたとあります。また駐留軍からも、昭和27年に235冊の寄贈を受けていることが分かります。どのような経緯で寄贈されたのかは不明ですが、駐留軍寄贈図書については、昭和27年7月に「大岡山工大26より受取」、第2回は同年8月に「文部省中等教育局より受取」と、図書館の記録に書かれています27

 これらの寄贈図書は現在一般図書として扱われていますが、その多くは5号館から11号館に図書館が移った際に、品川図書館から熊谷図書館の保存書庫に移動したものと思われます。

 桜井氏の文章は、今後も貴重な記録として尊重されるべきでしょう。

桜井氏と私立大学図書館協会

 桜井氏の戦前の活動は、図書館に資料が残っていないためよく分かっていませんが、創立後まもない私立大学図書館協会の総会に参加していたことが確認できます。私立大学図書館協会は、昭和5年に発足した東京私立大学図書館協議会を前身とし、昭和13年に創立された組織です。現在では、全国の私立大学の約9割が加盟しており、大学図書館の改善や発展を目指すことを目的に活動しています。

 立正大学が同会に参加したのは、昭和16年の東京分会臨時総会からになりますが、図書館の代表者として参加していたのは桜井氏でした。協会の記録には「客員立正大学(桜井良策氏)」と記載があります28。その後、第5回大会(昭和17)・第6回大会(昭和18)・東京部会(昭和19)には、客員でなく正式な会員として参加していたことが確認できます29

 桜井氏は、戦後も変わらず同会に出席し、積極的に発言・活動を行っていたようです30。第13回総会(昭和27年)と第15回総会(昭和29年)では、それぞれ第2回、第4回の図書館学研究発表会が行われていますが、桜井氏はそこで、「日本文化史の源流についての問題」、「絵巻物の書誌学的意義」の題で発表を行っています。

 昭和28年、第3回私立大学図書館協会関東部会は立正大学で開催されていますが、この時、図書館主事として開会の辞を述べたのも桜井氏でした。また同年、協会史編纂の話が持ちあがると、「史稿作成委員」の一人となり、昭和31年に刊行された『私立大学図書館協会史—東京私立大学図書館協会より第十五回総会まで』(私立大学図書館協会)の編纂者の一人に名を連ねています。その後、昭和36年の関東部会では議長に選出されるなど、長く図書館の顔として活動してきたことが窺えます。

 以上、品川図書館の歴史を、建物を中心に見てきました。次号からは古書資料館の蔵書や分類について述べていく予定です。

参考文献

大学史編纂委員会編『立正大学の百二十年』(立正大学学園, 1992)
立正大学史編纂委員会編『立正大学の百四十年』(立正大学学園, 2012)

  1. 『大崎学報』43(1916.2)所収の「教務月報」、大正4年7月5日の記事に、「小倉文承師図書館建設費中へ毎月金壱百円宛向ふ三ヶ年間寄贈すべき旨契約す」とある。
  2. 『立正大学新聞』[復刊]14(1950. 9.10)の「著々復興進む 戦前の偉容再現へ 復興第一期事業近く完了」の記事に、「今春早々着工した教授個別研究室九、会議室二、図書閲覧室二を含む百四十五坪の二階建木造建築は去る六月廿九日に完成し、現在既に使用に供されており、図書館附属建物一棟も、今月中に落成予定になつてゐる」とある。「図書館附属建物一棟」がどのようなものかは不明。また、二階建木造建築について、森曉「立正大学経営上の諸問題(一)」(『立正大学学園新聞』1955, 9.10)の中では、延129坪で6月25日の完成となっており、先の記事と微妙に食い違う。
  3. 「飛躍的に増加する本館利用者」(『アタラクシア(立正大学図書館報)』4, 1959.6)。
  4. 野村耀晶『立正大生活』(現代思潮社, 1953)参照。閲覧室2室の他には、目録室、事務室4(内2つは整理室と臨時書庫)があり、3階部分には宗学研究室と仏教学研究室が入っていた、とある。
  5. 「立正大学財政白書」(『立正大学学園新聞』4, 1953.6.20)。
  6. 「出版書店の各社の好意 寄贈図書」(『立正大学学園新聞』4, 1953.6.20)。
  7. 庄司史生「受入経緯」、庄司史生解説・立正大学大崎図書館編『河口慧海請来資料解題目録』(立正大学情報メディアセンター, 2013)所収を参照。
  8. 「書庫の増加を計画中=地下共五階から成る書庫がどの階も飽和状態で、もはやにっちもさっちもゆかなくなったので、今度宗学研究室の移転を機会に同所を書庫に充てることに成った。二十坪で二間両面の書架四個と、二間片面のもの一個を設備することに決定。これで約二年くらいは息付けそう」(立正大学図書館『館報』1, 1956.21)。「8月16日から四日間に亘り館員一同作業に従事し、約一五〇〇〇冊の図書を配架した」(立正大学図書館『館報』2, 1956.10)。
  9. 「窓口と図書職員に」という題で、投稿者は「経三、靖子」とある。
  10. 図書委員会は、図書館協議委員会と共に、昭和29年7月1日改正(施行)された「立正大学図書館規程に記載があり、第6条において、以下のように位置づけられている。「図書館協議委員会は館長各学部長及び一般教育課程主任をもって構成されその年度の基本方針について協議する。図書委員会は図書館協議委員のほか図書課長及び各科研究室主任教授をもって構成し受入図書の選択の方針を議し其他図書館の運営に協力する」(立正大学図書館『館報』5, 1957.4)。なお、リーディング・ルームの設置は、昭和31年9月14日の図書館運営委員会にて、「久保田教授」が述べた「基本図書及び共通に必要な図書を数定して、それらの図書を自由に閲覧できるような室を備えられないか」という意見が発端になったと思われる(立正大学図書館『館報』2, 1956.10)。
  11. 「リーディング・ルーム われらの図書館へ着々と準備進む 竹下教授抱負を語る」(『立正大学新聞』129, 1959.7.20)、「リーディング・ルーム開設 五日より二百十番教室で」(『立正大学新聞』130, 1959.9.20)。「竹下教授」についてはフルネームの記載がないが、文学部国文学科の竹下数馬教授か。
  12. 「図書館を探る」(『立正大学新聞』143, 1960.12.20)に記載されたアンケート結果による。アンケートは昭和35年11月24・25日にとられたもの。利用度は本館が79.5%に対し、リーディング・ルームは93.0%とある。
  13. 投稿者は、当時文学部一年生の榎本清美氏。
  14. 完成当時は2号館と呼ばれていたが、昭和41年度には、3号館と呼称されている(『立正大学学生要覧』昭和41年度)。
  15. 新聞会学芸部「新図書館に寄せて」(『立正大学新聞』183, 1964.12.5)では、閲覧室でなく「図書館」という扱いになっている。同記事によると2階80坪の閲覧室内に、大学院と父兄会の図書室が同居していた。
  16. 沼義昭「<エッセイ>十年身辺感想記」(『立正大学文学部論叢』100, 1994.9)。
  17. 勤続年については、桜井良策『日本図書文化源流考』(巌南堂書店, 1978)の「あとがき」による。
  18. 図書館職員の研修に桜井氏が関わっていたことは、『立正大学図書館年報』(昭和47年度)による。
  19. 「図書館の今後と運営」(『立正大学学園新聞』昭和28年2月20日)に「図書館唯一の情報機関であつたが人員等の関係で現在は休刊状態にある、いつかまた継続させたい意向である」と記されている。
  20. 『シリーズ・アタラクシア』vol.1~3の「発刊の辞」による。
  21. 『私立大学図書館協会会報』11(1954.11)。
  22. 『法華』42-1(1955.6)。
  23. 天野敬太郎先生古稀記念会[編]『図書館学とその周辺』(天野敬太郎先生古稀記念会, 1971)所収。
  24. 『私立大学図書館協会会報』57(1971.12)。
  25. 根本彰, 三浦太郎, 中村百合子, 古賀崇「政策文書に見る GHQ/SCAP 民間情報教育局の図書館政策」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』39, 2000.3)など。
  26. 大岡山にキャンパスのあった東京工業大学のことか。
  27. 原簿の上欄外の記載による。
  28. 『私立大学図書館協会史—東京私立大学図書館協会より第十五回総会まで』(私立大学図書館協会, 1956)。
  29. 前掲注28参照。
  30. 以下の記述は『私立大学図書館協会史』Ⅱ(私立大学図書館協会, 1978)による。

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