古書資料館通信 Vol.2

立正大学図書館略史(品川キャンパス)—古書資料館前史として 第2回

古書資料館専門員
小此木 敏明

 前号では、「立正大学図書館略史(品川キャンパス)」の第1回として、明治期の図書館建設計画や図書主任などについて述べました。今回は、大正期から現在まで見ていく予定でしたが、紙幅の関係で予定を変更し、昭和24年の新制大学認可の前後でいったん区切ることにします。ご了承ください。

立正大学図書館関連年表(2) 

※色付部分は大学の動向

大正5年19163月8日日蓮宗大学出火。図書室など焼失。多くの蔵書を失う。
大正5年19166月25日仮図書館上棟。
大正6年19172月20~24日日蓮宗第10宗会にて、大学科を芝二本榎承教寺内へ移転することが決まる。(中等科は大崎のまま)。
大正6年19177月頃小倉文承独力の寄付により図書館起工か。
大正7年19186月9日中等科の校舎・寄宿舎・講堂の落慶法要が行われる。
大正13年19245月17日大学令により立正大学設立認可(校舎は大崎)。
大正13年19246月15日立正大学設立祝賀式、及び校舎落成式。
大正15年19262月16日図書館落成式。開館は4月11日。
昭和11年19362月23日立正大学付属中学・商業学校が火災。図書館の蔵書は無事。
昭和12年19374月16日第4次宗務所長会議にて、新居日薩上人五十回忌報恩記念事業として立正大学図書館改築費を募集することが決議される。
昭和20年19455月15日アメリカ空軍の爆撃で大学の建物がほぼ焼失するも図書館は無事。
<大正期から旧制大学時代>

大正5年の火災と仮図書館

『日蓮宗大学一覧』は今で言うところの学生要覧。図書館にこれより古いものの所蔵はない。

 明治42年に計画された図書館は完成せず、時は流れて大正5年となりました。この年の3月8日、日蓮宗大学は火災によって甚大な被害を出してしまいます。当時の新聞記事によれば、仮図書室を含む校舎その他10棟が焼失し、被害総額は約8万円にも及んだそうです1

 当然、図書室の資料にも被害が出ました。馬田行啓氏の証言によると、教職員や学生によって運びだされたものもありましたが、「シヤム国皇帝陛下御寄贈のパーリ三蔵を始め、旧檀林以来の稀覯の図書が半ば以上灰燼又は端本となつた」ということです2。「パーリ三蔵」以外にも、大学に所蔵されていた中村檀林の古文書類131点が焼失したと言われています3。ただし、火災によって仮図書室の蔵書がどの程度被害を受けたのか正確な記録は残っていないようです。蔵書の被害状況にてついては現在調査中ですが、その調査結果の一部は古書資料館通信の4号に掲載する予定です。

 ところで、明治42年の図書館の設計概要によると、書庫には焼過レンガを用い、床下はセメントで固めるなど、火災や湿気に充分備えるべきことが明記されていました4。もし計画通りに図書館が建造されていれば、蔵書の被害はかなり抑えられたかもしれません。そう思うと非常に残念です。

 火災後、図書室の資料はどうなったのでしょうか。焼失を免れた分は近くの民家を借りて整理された後、6月25日に棟上された仮図書館に移されました5。その後の状況についてははっきりしませんが、大正15年の図書館完成まで、この仮図書館が利用されたのかもしれません。だとすれば、『日蓮宗大学一覧(大正9年4月現在)』(立正大学, 1920.10)に載る「日蓮宗大学図書館規則」の「図書館」は、この仮図書館を指すことになります。

大正6年の図書館建設とその中止

 ただし、大正6年に新たな図書館を大崎に建てる動きがあったようです。この図書館は、一樹山宗柏寺の住職だった小倉文承氏6が独力で5,000円を寄付し、7月頃に起工されたと考えられます7。しかし一方で、大正6・7年頃に図書館を大崎に建てかけてみて中止した、という馬田行啓氏の証言が確認できます8。時期的に考えて、建設が中止された図書館というのは、小倉氏寄付の図書館だったのではないでしょうか。

 火災後、辰野金吾氏が設計した中等科の校舎、寄宿舎と講堂が大崎の地に復興され、大正7年6月9日にその落慶法要が行われています。小倉氏の図書館は、辰野氏の寄宿舎・講堂と同時期の完成が見込まれていました9。しかし、落慶法要の記事などに図書館が完成したという情報は見られません。

 ここで、小倉氏寄付の図書館が建設中止となった理由を考えてみたいと思います。中等科の建物が大崎に建てられたのは、大正6年の日蓮宗第10宗会で、中等科を大崎に、大学科を芝二本榎承教寺境内に設置することが決まったためです。しかし、大学科を移転させ、中等科と分けるかどうかについては議論があり、そこに大学昇格問題(大正7年に公布された大学令によって私立大学の設置が認められたため、当時専門学校だった日蓮宗大学を大学へ昇格させるための準備を進めるか、専門学校のまま存続するかで議論となった問題を指します)がからむことで話はよりこじれました。寄宿舎・講堂の完成後、大学科の再建築が進まなかったのは、もともと大学科移転に反対する側が多数派だったため、という見解もあります10。図書館についても、中等科と大学科にそれぞれ建てるのか、中・大兼用にするのかといった議論から建設が見送られたということも考えられるのではないでしょうか。

 以上は推測ですが、どのような理由であれ、図書館の建設が中止されて一番残念がったのは、中等科の生徒でしょう。当時、中等科5年級の生徒たちは、小倉氏の図書館に参考書を寄贈する計画を立て、募金を集めていました11。中等科の生徒が小倉氏の図書館を積極的に利用するつもりだったことは確かです。

大学昇格と図書館の完成

「立正大学史料編纂室」提供 大正15年完成の図書館外観(撮影日不詳)中央の建物が書庫、その隣が閲覧室

閲覧室の様子。昭和6年3月立正大学高等師範部歴史地理学科卒業記念アルバム(図書館所蔵)より

 結局、図書館の建設が決まったのは、大学昇格問題が解決を見た後のことになります。大正11年、日蓮宗第15宗会にて大学昇格案が可決され、その翌年に大学を大崎に建てることが決定しました。翌12年3月、文部省に大学昇格申請書類を提出する一方で、7月には大学校舎の建設が開始されます12。図書館は、校舎の建設にめどが立った大正13年の2月末頃に着工となったようです13
同年5月17日、大学昇格が認められ、日蓮宗大学は立正大学と名を変えます。校舎の落成式は、大学設立の祝賀会に合わせて、6月15日に行われました。当初、図書館も校舎と同じく4月には完成している予定でしたが、工事に遅れがでたようで14 、図書館の落成式が行われたのは大正15年2月16日のことになります。ここに至り、ようやく正式な図書館が完成したわけです。ちなみに、この図書館と校舎の設計を手掛けたのは、後に劇場建築・鉄筋コンクリート建築の権威となる僊石政太郎氏15です。立正大学の完成後には、浅草の富士館(昭和2年竣工、観客定員764人)16や日本橋の明治座(昭和3年竣工、観客定員1738人)17などを手がけています。


 僊石氏の図書館は校舎と同じく鉄筋コンクリート製で、書庫4階建地下室付(75坪)、閲覧室3階(84坪)、渡廊下(8坪)からなる建物でした18 。図書館や校舎が鉄筋コンクリート製となったことで、火災による全焼の危険はかなり少なくなりました。鉄筋コンクリートを用いたのは、文部省が大学昇格を認める条件に、教室や図書館を不燃質の建物にせよ、という項目をあげていたためのようです19 。大正12年に関東大震災が起きたこともあり、建物の堅固さが要求されたのかも知れません。その甲斐もあってか、僊石氏の図書館は戦禍を免れ、昭和42年まで存続することになります。

 ただし、昭和12年に図書館の改築が計画されたことがありました。この改築は、新居日薩上人の五十回忌報恩事業に位置づけられ、目標金額を10万円として寄付金が募られました20 。しかし、戦時中ということもあってか、昭和17年までの寄付金の総額は、予定の半分程度にしか達していません21。おそらく改築は見送られたのではないかと思います。

 ところで、大正5年の火災以後、図書館の資料が大きな被害を受けることはなかったようです。関東大震災の折にも被害の報告はありません。昭和11年2月23日には、立正大学附属中学・商業学校が火災を起こし、建物の3分の2が焼失しています22 。この時、重要書類は大学の図書館に安置されており無事だったという証言があるので、図書館に被害はなかったはずです23 。昭和20年には、米軍の空襲で大学の建物がほぼ焼失してしまいます。当時、貴重資料の疎開は行われなかったようですが、幸いにも図書館は延焼を免れました24

参考文献

日蓮宗事典刊行委員会編『日蓮宗事典』(日蓮宗宗務院, 1981.10)。
大学史編纂委員会編『立正大学の百二十年』(立正大学学園, 1992)。
立正大学史編纂委員会編『立正大学の百四十年』(立正大学学園, 2012)。
安中尚史「近代宗教教育に関する一考察—日蓮宗大学林設立について」(『日蓮教学研究所紀要』18, 1991.3)。
安中尚史「近代宗教教育に関する一考察(その二)—日蓮宗大学林から立正大学への昇格について」(『日蓮教学研究所紀要』19, 1992.3)。

  1. 『東京朝日新聞』『読売新聞』の大正5年3月9日(朝刊)の記事による。
  2. 馬田行啓「立正大学の過去現在未来」、『吾等の大学』(立正大学同窓会, 1928)所収。
  3. 音馬実蔵編『正東山日本講寺歴代譜—旧中村檀林』(旧中村檀林記念奨学会, 1940)の「中村檀林古文書焼失記録」による。この情報の根拠となっているのは「大学の当時の始末書」である。現在この始末書は確認できず、立正大学の史料編纂室に問い合わせ、調査を依頼している。
  4. 「大学図書館設計概要」「起業順序及規定」(『大崎学報』10, 1909.7)による。
  5. 『大崎学報』45(1916.11)所収の「教務月報」によると、大正5年6月25日に「仮図書館上棟」とある。また、『月刊宗報』5(1917.6.4)の「日蓮宗大学報告」に「図書ハ附近ノ民家ヲ借入レ直ニ整理ニ着手セシガ其後特志図書寄贈ヲ申出ツルモノ多ク火災ノ憂慮ヲ感ズルコト切ナルモノアリ依テ六月ニ至リ旧学長室跡ニ一時仮図書館ヲ建設シ以テ全部ノ整理ヲ終了セリ」とある。
  6. 「教育思想の発展と本学基本金」(『大崎学報』10, 1909.7)に「現庶務課長」として名前がある。大正10年発行の山上智海『久遠の春』の「本書出版義助者芳名」に「牛込区榎町宗柏寺住職 小倉文承殿」とある。昭和4年1月24日没(『月刊宗報』147, 1929.3)。
  7. 『大崎学報』47(1917.7)の「彙報」欄に「図書館の新築 小倉文承師独力書庫新築費を寄附せられ、煉瓦作二階建の新館近く谷山が丘に起工せらるべき由に候」とある。「せらるべき」とあるので、雑誌発行時点では、まだ工事が開始されていなかったと思われる。そのため、雑誌発行後に着工されたと考え、7月頃の起工と推測した。寄付金の額は『日宗新報』1417(1917.12.5)による。詳細は注9を参照のこと。
  8. 馬田行啓「昇格問題及び校舎建築の経過概要」、浅井要麟編『希望と回顧』(立正大学同窓会, 1924)所収に「大学部校舎の再築は思ふやうに捗らない。大正六、七年頃富田教頭の時代には、図書館を大崎に建てかけて見て中止したり、新校舎の設計に著手したりなどもしたが、結局未解決に残された」とある。
  9. 『日宗新報』1417(1917.12.5)の「報道欄」に「●学生の美学 ▲日蓮宗大学中等科五年級生徒の発企にて図書を購入新築図書館に納めんとす」という記事がある。この記事の中に「校舎新築紀念図書館備付図書購求事書業趣意」が紹介されているが、そこに「今秋大崎谷山丘上巍然として聳ふる宏壮なる校舎新築せられ来春を記して新たに完成せ んとする寄宿舎及講堂も既にその工事の端緒に著き同時に宗門の特志家小倉文承師の寄贈になる建設費五千円を以て堅実なる図書館も竣成せられんとす」と記されている。『法華』4-10(1917.10)の「天晴地明」欄の「日蓮宗大学新校舎落成」にも「尚同大学の大講堂及び寄宿舎は明年四月三十日を契約期日として工事の契約を終れり。目下第三教室及び図書館新築の工事に着手中にて此等全部の竣工を待ち明年五月の頃、盛大なる開校式を挙ぐべしといふ」とある。『日宗新報』の記事と合わせて考えると、ここで言う「図書館新築の工事」は小倉氏寄付の図書館のことだろう。
  10. 前掲注8(「昇格問題及び校舎建築の経過概要」)に、「元々多数の意志は宗費多端の折柄強ひて大中を別置しなくとも併置して居れるなら併置で善いではないかといふにあつたから、大学部校舎の再築は思ふやうに捗らない」とある。
  11. 「募集金予定額」は500円で、期間は大正6年9月25日から大正7年1月31日としている。前掲注9の『日宗新報』1417の記事による。
  12. 「日蓮宗大学増築校舎上棟式」の奉告文に「大正十二年六月僊石政太郎ニ設計及監督ヲ命シテ校舎増築ノ工ヲ起サシメ本日(筆者注 大正13年1月21日)上棟ノ式典ヲ挙グ」とあるが(『月刊宗報』86, 1924.2.10)、起工式は7月6日。
  13. 前掲注8(「昇格問題及び校舎建築の経過概要」)に、「校舎の方は大分目鼻がついたので、二月末頃から図書館工事に著手した」とある。
  14. 『月刊宗報』78(1923.5.10)の「新校舎及図書館の設計」に、「目下僊石技師の事務所に於て設計中なるが四月末までには完了の見込なり」とあるが、『大崎学報』66(1925.3)には、「尚図書館の建築は一寸と頓座したやうであつたが諸先生方の御尽力によつて、クレンを走る砂礫の音もさはやかに建築は着々進み、もう四階建地下室附の書庫と三階建の研究室及び閲覧室は外形だけ出来上がり目下内外の取附をやるまでになった」とある。
  15. 僊石政太郎(1879~1945)は、大正9年に警視庁を退任後、僊石建築事務所を開設した人物。『島根歴史人物事典』(山陰中央新報社, 1997)参照。
  16. 観客定員は、僊石政太郎設計監督「富士館新築工事概要」(『建築画報』19-11, 1928.11)による。
  17. 観客定員は「明治座建築工事概要」(『建築雑誌』42-509, 1928.5)による。同記事には、設計監督として「僊石建築事務所 建築士 僊石政太郎」(他2名)とある。
  18. 前掲注8(「昇格問題及び校舎建築の経過概要」)の「経過表及坪数」による。
  19. 馬田行啓「昇格の思ひ出」(『立正大学新聞』46, 1933.10.6)によると、「教室は従来木造でもよかつたが、向後は不燃質の建物でなくてはならない」「従来は図書室を備へればさしつかへなかつたが、今後は不燃質の図書館を建てなくてはいけない」等の条件が出されたとある。
  20. 昭和12年4月に開催された第4次宗務所長会議の協議事項に、「薩師報恩記念事業立正大学図書館改築費募集方法に就て」がある。宗務所長会議にて3年間で改築費10万円を募集することを決議した(「第四次宗務所長会議事梗概」『日蓮宗教報』23, 1937.5.15)。
  21. 『宗報』16(1942.6)によると、昭和17年4月17日までの寄付金累計額は46,840円18銭。
  22. 「立正大学付属中、商業学校怪火 二度目の災厄・大半焼失す」(『読売新聞』朝刊, 1936.2.24)。
  23. 『立正大学新聞』(1936.3.15)の「立正中学全焼 応急処置、今や完し 果然!!移転問題抬頭 来る財団理事会にて決定?」の記事中に、「重要書類は無事 其他は御真蹟その他重要書類は大学部図書館に安置され此につき種々デマが飛んでゐるが無事なる由史料編纂委員高瀬乙吉氏は語つて居た」とある。ただし、「史料編纂所」に置かれていた図書館の資料『宗祖御葬送次第』軸一本(請求記号 D82/18)が立正中学の火災で焼失したという記録が図書館の原簿に見られる。
  24. 武越慈寛「文学部についての思い出」(『立正大学文学部論叢』55〔別冊〕, 1976.3)。

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