資料一覧

 

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1 大聖降誕

 日蓮聖人は貞応元年(1222)2月16日、安房国長狭郡東条片海小湊(現在の千葉県鴨川市小湊)に生まれました。自らの出自を「日蓮は日本国東夷東条安房の国の海辺の施陀羅が子也」と遺されていることから、漁民の子として生まれたと考えられています。 画面右下に湧き出る水を汲む様子がありますが、これは日蓮聖人の誕生に際し、どんなときにも涸れることない霊泉が湧き、その水を汲んで産湯にしたと伝えられていることから描かれたのでしょう。

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2 清澄修学

 16歳で出家した日蓮聖人は、この時に幼名の薬王麻呂から是聖房蓮長とあらため、僧侶の修行と学問の道を本格的に歩み出すのでした。蓮長は当時の仏教諸宗派や国家・社会に対して、さまざまな疑問をいだきはじめ、その疑問を解決するために、自ら日本第一の智者となることを願いました。この場面では、4人の僧侶たちに囲まれて勉学に励む様子が描かれています。

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3 聖母訪問

 日蓮聖人は幼名を薬王麻呂といい、子どもの頃から学問を好み、12歳の時に生まれ育った小湊に近い清澄寺に登ります。この寺は当時天台宗に属し、住僧であった道善房について勉学に励み、やがて出家を志すことになります。この場面は訊ねてきた母親に対して、修行の身であるので自分のことは忘れるようにと述べ、以後の訪問を断る様子が描かれています。

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4 虚空蔵祈願

 智慧、功徳、慈悲が虚空のように無尽蔵であるという理由から、その名がつけられた虚空蔵菩薩が、夢の中で蓮長のもとに現れました。蓮長は虚空蔵菩薩から智慧の宝珠を授かると、爾来、慧眼がとくに開けて、それまで疑問だらけであった諸宗派や諸経典の奥義と、国家・社会の情勢を明らかにすることができたといわれています。しかし、清澄寺での勉学は、蓮長を満足させることができなくなってしまうのでした。

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5 神宮奏上

 日蓮聖人は京都・比叡山・南都で学問を修めた結果、法華経が唯一絶対の教えであることを見いだし、故郷で開宗の宣言をすることを決意しました。この場面は、帰郷の途中に伊勢神宮へ詣で、「われ日本の柱とならん。われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん」と立教開宗の三大誓願を天照大神に奏上したところが描かれています。この後、妙見菩薩が日蓮聖人の眼前に姿を現し、法華経守護を誓ったという伝説が残されています。

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6 立教建宗

 関西地方を中心に勉学に励んでいた蓮長は、建長5年(1253)の春、生まれ故郷の安房国に帰ってきました。そしてこれまでの勉学によって、法華経を最もすぐれた教えと位置づけ、これを弘めることを自らの使命と課すのです。4月28日、幼い頃から勉学に励み出家の地である清澄寺で、昇る朝日に向かって南無妙法蓮華経(題目)を唱え、立教開宗(日蓮宗の開宗)を宣言し、名を日蓮とあらためるのでした。

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7 双親受戒

 立教開宗を宣言した日蓮聖人は、さっそく最初の説法を道善房のお堂で、清澄山の人々を集めて行うのでした。それは法華経をあらゆる経典の中で最もすぐれたものと位置づけ、また題目を唱えることを修行の第一と考え、さらに諸宗派の誤りを指摘しました。この説法は清澄山を驚動させ、その後、命を狙われることになるのでした。この場面では、清澄山を追われた日蓮聖人が父母のもとに教化のために訪れ、その後鎌倉に向けて旅立つ様子が描かれています。

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8 辻説法

 建長5年(1253)4月28日、故郷の安房で開宗を宣言した日蓮聖人は、その後、鎌倉に入りました。当時の鎌倉は地震、大風、干魃に襲われて疫病が流行し、人々は不安と恐怖に怯えていたということです。この場面は、日蓮聖人が松葉ヶ谷の草庵から鎌倉の街頭に出て、行き交う人々に対して辻説法を行い、法華経の教えを熱心に説く様子が描かれています。説法の場所は屋敷町と商家町との境で、幕府にも近いことから、大変賑わったところであったそうです。

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9 国策諫奏

 文応元年(1260)7月16日、宿屋入道を取次として、日蓮聖人によって著された『立正安国論』は、当時の幕府で実権を握っていた前執権の北条時頼に献じられました。このなかで、全国各地で起こる災害の原因は、念仏などの邪教が興隆するために、正しい教えが弘まらず、このような状態であれば内乱と外国の侵略を招くと予言して、法華経のみを信仰することによって、この難から逃れることができると述べたのでした。

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10 草庵焼打

 日蓮聖人が幕府を誡めるために『立正安国論』を執筆し、文応元年(1260)7月に幕府の実権を握っていた北条時頼に献じましたが、念仏僧たちが中心になって時頼に対して訴えたため何の答えもありませんでした。さらには8月27日に鎌倉名越の松葉ヶ谷に講えた草庵で日蓮聖人は夜討ちにあい、命を奪われそうになったのでした。この場面では、白い猿に手を引かれ、危うく難を逃れた様子が描かれています。

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11 由比ヶ浜刑船

 松葉ヶ谷の法難を逃れ下総国の信徒のもとに赴いた日蓮聖人は、その地で教化活動に専念するのでした。そして再び鎌倉へ戻って松葉谷に草庵を構えると、以前にも増して法華経の教えを説く一方で、他宗派や幕府を批判しました。この行動はすぐに幕府の耳に届き捕らえられて、弘長元年(1261)5月12日、伊豆の伊東へ流されることになりました。この場面では由比ヶ浜から舟に乗せられ、流罪地へ向かう日蓮聖人の姿と、それを心配そうに見守る弟子や信徒の様子が描かれています。

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12 俎岩の危難

 弘長元年(1261)5月12日、幕府に捕らえられて伊豆の伊東へ流された日蓮聖人は、土地の地頭伊東八郎左衛門の預かりとなりました。八郎左衛門は幕府の命令によって、日蓮聖人の世話をしたり、かくまったりしてはならないと領内に厳しく布告したのです。この場面では、幕府の役人によって俎岩に置き去りにされた日蓮聖人を、漁師の船守弥三郎が助ける様子が描かれています。その後、弥三郎夫妻は領主の命令に背いて日蓮聖人を手厚く庇護するのでした。

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13 小松原法難

 文永元年(1264)11月11日の夕刻、日蓮聖人は天津に住む信者の工藤吉隆の招きに応じて、弟子・信者とともに吉隆の屋敷に向かっていました。一行が東条の郷松原大路にさしかかると、永年にわたって日蓮聖人の命を奪おうと機会を狙っていた地頭である東条景信が、多くの軍勢をひきいて襲撃をしてきました。この場面では、弟子の鏡忍房と、知らせを聞いて駆けつけた工藤吉隆の二人が命を奪われ、また乗観房と長英房の弟子二人が重傷を負ってしまった様子が描かれています。

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14 富士埋経

 文永6年(1269)、国の安泰と法華経の広布を祈念して富士山の中腹で法華経を埋経したとされています。この場面は経ヶ岳とされ、埋経の事実を伝えるために後世になってからつけられたということです。この場面は弟子・信徒を引き連れて、富士山頂を望みながら埋経する様子が描かれています。

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15 誦経祈雨

 文永8年(1271)の夏、大干魃にみまわれ苦慮した幕府から要請を受けた律宗の僧侶忍性(良寛)は、祈祷によって雨を降らせることを公言しました。しかし忍性の祈りは通じず、日蓮聖人はその祈祷のありかたを痛烈に批判するのでした。これが鎌倉諸大寺や律宗をはじめ諸宗派の人々から恨まれることとなり、それまで日蓮聖人の言動や行動に不満をもっていた幕府と手を組んで、日蓮聖人の暗殺を計画するのでした。この場面は日蓮聖人と弟子たちが降雨の祈祷をする様子が描かれています。

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16 松葉ヶ谷召捕

 文永8年(1271)9月12日午後4時ごろ、侍所の所司である平左衛門尉頼綱は、武装した兵士数百人を引き連れて、鎌倉名越にある松葉谷の草庵を襲いました。この襲撃で日蓮聖人は捕えられ佐渡流罪の名目のもと、途中の竜口刑場で頸を刎ねられようとしたのです。弟子・信者たちも災難をこうむり、日蓮聖人のみならず組織自体を壊滅させるために仕組まれた事件でもありました。この場面は日蓮聖人が兵士たちの手によって、まさに召し捕らわれようとする様子が描かれています。

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17 社頭諌暁

 松葉ヶ谷の草庵で捕らわれた日蓮聖人は、鎌倉の大路を馬に乗せられて引き回されていましたが、鶴岡八幡宮にさしかかったところで、警護の武士に対して八幡宮に申すべきことがあるといって、一行を止めさせました。そして馬から下りた日蓮聖人が「日本第一の法華経の行者が、幕府によって不当に罰せられる姿を見ぬふりをする八幡大菩薩は真の神といえるか」と訴えている様子が、この場面では描かれています。

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18 龍口法難

 鎌倉を引き回された後、日付が変わった9月13日の午前1時ごろ、日蓮聖人は龍口の刑場で敷物に座らされて、とうとうその頸が刎ねられようとしていました。するとその瞬間、江ノ島の南東から満月のように大きな光る物体が北西へと飛び、日蓮聖人の上に現れたのでした。そして頸を刎ねようとして太刀を大きく振りかざした武士を直撃し、太刀は三つに折れてしまい、その手足は動かなくなってしまったのでした。

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19 宿屋土牢

 日蓮聖人が依智にとどめられていた20日余りの間に、日朗をはじめ多くの弟子たちが捕われの身となってしまいました。その理由は日蓮聖人の処刑に失敗した謀略者たちが、日蓮聖人の弟子や信者の名をかたって、鎌倉の方々で放火・殺人・強盗などを行い、ぬれぎぬを科せてしまったからでした。この場面は、土牢に閉じ込められている日朗が、日蓮聖人から送られた手紙を読んでいる姿が描かれています。

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20 星下奇瑞

 龍口の処刑を免れた日蓮聖人は、そのまま相模国愛甲郡依智の本間重連の館に送られることとなります。重連の館に到着した夜、日蓮聖人は庭に立って経文を誦えるとともに、天の月天子に向かって法華経の行者を守護しない理由を問いただしました。すると庭の梅の木に明星天子の姿となって現れて、これより先の守護を約束することになりました。またこれを見ていた警護の武士は、縁側から逃げ隠れするものが続出したということです。

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21 波頭題目

 越後国寺泊から舟に乗せられ、流罪地の佐渡へと向かう途中、日蓮聖人を待ち受けていたのは、暴風が起こり波が荒れ狂う日本海でした。舟がいまにも沈みそうになった時、日蓮聖人が法華経を誦したところ、波頭に「南無妙法蓮華経」と題目が現れて、波も静まり無事佐渡の松ヶ崎に到着することができたのです。この場面は大荒れの海に臨む日蓮聖人の姿が描かれています。

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22 阿佛給仕

 日蓮聖人は文永8年(1271)11月に佐渡へ配流され、塚原の三昧堂で厳しい生活がはじまりました。他宗派を強く批判する日蓮聖人を敵視する人々はこの地でも多く、阿仏房もその中の一人でしたが、かえって論破されてしまい帰依するようになりました。この場面は、供養の品を携えた阿仏房と千日尼の夫妻が、激しく降る雪の中を歩き進んで、日蓮聖人のもとへ訪れる様子が描かれています。

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23 塚原問答

 塚原の荒れ果てた小堂に置かれた日蓮聖人でありましたが、ここでも念仏宗徒が攻撃を加えてきました。最初は日蓮聖人を殺害しようとする動きもありましたが、本間重連の仲裁によって文永9年(1272)1月16日に宗論をもって対決することとなりました。この場面では、念仏僧が佐渡のみならず越後や信濃などからも塚原に集まって、日蓮聖人と議論を闘わせている様子が描かれています。

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24 真野御陵参拝

 承久の乱に敗れた順徳上皇は、北条氏によって佐渡へ配流となり、この地で崩御されました。日蓮聖人に帰依した阿仏房は上皇に従って佐渡へ渡った北面の武士で、念仏の信仰によって上皇の菩提を弔い続けていましたが、日蓮聖人との出会いによりその信仰をあらためるのでした。この場面は佐渡に流された日蓮聖人が阿仏房の願いにより、順徳上皇の御陵に回向する様子が描かれています。

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25 女人日妙

 日妙とは日蓮聖人に対して深い帰依をかたむけていた、女性の信者でした。夫と離別した後に幼い乙御前とともに鎌倉に住み、龍口法難の際に加えられた教団への弾圧にも屈することなく、日蓮聖人の教えに従って信仰生活を営み続けるのでした。この場面は、佐渡に流された日蓮聖人に会うため、配流の地へ向かう様子が描かれています。日蓮聖人は日妙の志を讃えて「日本第一の法華経の行者の女人なり」と筆を遺しています。

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26 本尊図顕

 日蓮聖人は文永10年(1273)7月8日、佐渡の一谷において、初めて大曼荼羅本尊を図顕しました。自らの宗教世界を曼荼羅本尊という形で日蓮聖人は表現し、中央に題目「南無妙法蓮華経」を認め左右には十界の諸尊を勧請した大曼荼羅本尊と、紙面中央に題目のみで左右に十界の諸尊を勧請しない首題本尊とがあります。これまでわずかに曼荼羅本尊を図顕していましたが、大曼荼羅本尊として整えられたのはこの時が初めてでした。

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27 日朗渡海

 文永11年(1274)2月14日、執権の北条時宗は日蓮聖人の赦免を決め、弟子の日朗によって佐渡までもたらされることとなりました。日朗は佐渡までの危険をものともせず、そびえ立つ山々を越え、果てしない海をわたって、3月8日の夜半に日蓮聖人の草庵に到着したのでした。この場面は、日朗が赦免状を携えて雪深い山道を日蓮聖人のもとに足を急がす様子が描かれています。

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28 柳営対面

 佐渡を文永11年(1274)3月15日に出発した日蓮聖人の一行は、途中念仏信者たちが命を狙って待ちかまえる中、無事3月26日に鎌倉に到着しました。幕府は4月8日に日蓮聖人を召喚しましたが、今回会談にあたった幕府の要人たちは終始なごやかな雰囲気で話しを進ませたということです。しかしこの会談の目的は蒙古襲来の時期を日蓮聖人に尋ねるためであり、日蓮聖人が弘める教えを聞くためではなかったのです。

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29 身延隠栖

 日蓮聖人は、鎌倉に留まり続けて、これまで通り幕府を諫暁しても無意味であることを悟り、少し離れたところから世の中の移り変わりをながめることを決意しました。また自らの滅後のことを考え、弟子たちの育成も図らなければならないことを考え、信者である南部実長の招きもあって、文永11年(1274)5月に身延山へと入り弟子の育成や信徒の教化に励むのでした。

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30 登高思親

 日蓮聖人は信徒の南部氏の招きに応じて、身延山へ入山しました。その後、在山中の9年間、折に触れて生まれ故郷のことを思い出しては、西山に建てられた草庵から五十丁の山道を登り、身延山の山頂へと足を運ばれました。この場面は、日蓮聖人が遥か故郷の両親や師の道善房を追慕するために登った山頂からの景色が描かれています。

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31 蒙古襲来

 文永11年(1274)10月、日蓮聖人が予言していた通り、蒙古軍がとうとうわが国を襲ってきました。10月5日対馬、14日壱岐を侵して島の人々をことごとく殺害し、ついに九州の筑前・肥前の海岸から上陸を果たし、大宰府や筥崎八幡宮などを襲撃しました。応戦していた兵士たちは皆倒れ臥し、その流れ出た血が地をそめているというような凄惨な状態であったそうです。

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32 霊山結縁

 弘安5年(1282)9月8日、日蓮聖人は療養のために9年間生活した身延山を下山し、常陸の湯へと向かう様子がこの場面で描かれています。途中、18日武蔵野国千束郷に住む信者の池上宗仲の館に立ち寄ったのですが、臨終間近であることを悟り、ここを入滅の場所とさだめたのです。日蓮聖人は宗仲の館で各地から集まった弟子や信者たちに対して、最後の講義として『立正安国論』を解き明かしたということです。

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33 池上示寂

 日蓮聖人は池上宗仲の館を臨終の場所とさだめ、ここで最後の講義を行ったり、本弟子6人をさだめ滅後の教団運営に関する事柄を託すのでした。この6人とは日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持で、後に六老僧と呼ばれました。この場面では、日朗の弟子で幼い頃から日蓮聖人のもとで修行をかさねていた経一麿(後の日像)を呼び寄せて、京都における開教を委嘱する様子が描かれています。

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